木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ポンペの晩年

2013年04月05日 | 江戸の人物
ポンペは日本の医学界にとっての大恩人である。
ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトという長い名前のポンペは幕末、幕府から長崎に招聘されたオランダ人である。

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。

長崎大学医学部の碑板にも残されているポンペがこのような発言をしたのは、彼がまだ30歳代前半だった頃である。
残っている写真を見ると、随分貫禄があるようで、とても30歳そこそことは思えない。
日本に来た頃のポンペの医師としてのキャリアもそれほどではなかったと考えられるが、頑固爺のような強硬さをもって、単身でポンペは日本人たちと渡り歩いている。

その後、ポンペはオランダに帰国し、結婚。無事子供も生まれている。
榎本武揚は箱館に籠ってまで政府軍に一矢報いようとした人物であるが、赦されて明治七年当時はロシアとの国交に当たっていた。
その頃、ポンペが再び活躍している。

かれ(榎本武揚)は、ポンペが外国の政治情勢に精通しているのを知り、旧知の間柄であることからロシアに招いた。
ポンペは、榎本の依頼でロシア側の動きを探って樺太・千島交換条約の締結に貢献し、その功によって日本政府から勲四等旭日小授章を贈られた。


ここまでは非常に順調であったが、晩年は悲惨である。

その頃(日本から勲章を貰った頃)から、かれは医学の教育研究からはなれて牡蠣の養殖事業に専念するようになり、ベルギーとオランダの間を往き来した。
事業は順調であったが、晩年に至って失敗し、多額の負債を負って親類縁者に迷惑をかけ、非難された。
一九〇八年(明治四十一年)十月三日、かれは貧困の中でブリュッセルで死亡した。七十九歳であった。


ここまで見てくると、長崎大学の碑にあるポンペの言葉というのも若輩者の青臭い戯言であるような気もしてくるのである。
よく言われるように、明治維新の頃の主役級は驚くほど若い連中であった。
海外から招かれた講師陣も若かった。
ポンペにどのような心理的変化があったのかは知らない。
人生の達観者のように思えたポンペが人生の最期において、借金まみれというあまりにも俗人じみた環境に置かれてしまったのは、人生の怖さを感じる。

参考:暁の旅人(吉村昭)講談社

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