水野忠邦というと、悪名高い天保の改革の指揮者として有名である。
ときの将軍・家慶が好物の初ショウガも食べられず、ぼやいた話も残っている。
しかし、別の一面もある。
忠邦は、吉宗以来途絶えていた何かと費用の掛かる日光参拝を復活したのである。
同じく倹約令を敷いていた吉宗が久しぶりに日光参拝を復活した点も面白い共通項だ。
最後に家綱が日光に参拝した寛文三年から実に六十五年が経った享保十三年。
八代将軍吉宗がのちに享保の改革と呼ばれる緊縮財政を行なっているときに、日光参拝は復活した。その後も歴代ごとに行なわれることがなく、十代家治、十二代家慶の御世にのみ行なわれた。
日光参拝が敬遠された理由は、費用が掛かりすぎる点にあった。
大御所政治を敷いた家斉も、文政九年に日光参拝を計画しながらも、金銭的理由により断念した。
この日光参拝に並々ならぬ意欲を燃やした男がいる。ほかならぬ老中・水野忠邦である。
忠邦は、天保の改革の倹約政治だけが喧伝されるが、一方では思い切った金の使い方をした人物である。
家慶の日光参拝を忠邦が計画し始めたのは、天保十一年頃と言われ、同年十月には作事奉行若林佐渡守と勘定吟味役中野又兵衛を日光に霊廟や諸堂社の修復のために派遣している。翌十二年正月には日光神領の改革も開始されている。
忠邦は参拝の費用は倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした。三年来の長期計画を立てた念の入れようで、相当な散財となるこの行事を成功に導いた。
寛政六年、忠邦は肥後国唐津六万石の藩主水野忠光の子として生まれている。十九歳にして家督を継ぐと、幕政の中枢への憧れ捨て難い彼は浜松藩六万石への転封を上申する。唐津藩は長崎警護の任務があり、幕閣に列席できなかったからである。
浜松藩も唐津とお同じ六万石であったが、石高には表高と内高がある。表高は格式とも言うべきもので、この大小によって家の格式や江戸城での部屋が決定される。内高は実質的に収穫される石高のことである。浜松は格式が高い家だったので、表高も内高もほぼ同じ六万石であったのに対し、唐津は表高六万石、内高二十万石であった。
家臣の猛反対を押し切って浜松に転封になった忠邦はそれ以降、中央への足掛かりを作ることに成功していくのだが、この計算などを見ても、忠邦は人とは違った算盤を持っていた男と言える。
「天高く」より引用
注目されるのは参拝の費用を「倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした」という点である。
日光参拝は徳川幕府の権威復活を示すデモンストレーションであったが、天保の改革の倹約も、費用捻出ための一環であったのだ。
忠邦が老中を罷免されたとき、江戸町民は忠邦の屋敷に石を投げて喜んだと言う。
そんな没落を見て、かつてはこびへつらうように従っていた町奉行・鳥居耀蔵らは手のひらを返したように冷たく接したのであるが、忠邦は翌年に再び老中に返り咲いている。
忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。
時代に逆行したと言われる天保の改革を行った忠邦は過小評価される場合が多いように思うが、信念の人だったには違いない。
政策的な評価は別として、私の目には忠邦は魅力的な人物に映る。
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ときの将軍・家慶が好物の初ショウガも食べられず、ぼやいた話も残っている。
しかし、別の一面もある。
忠邦は、吉宗以来途絶えていた何かと費用の掛かる日光参拝を復活したのである。
同じく倹約令を敷いていた吉宗が久しぶりに日光参拝を復活した点も面白い共通項だ。
最後に家綱が日光に参拝した寛文三年から実に六十五年が経った享保十三年。
八代将軍吉宗がのちに享保の改革と呼ばれる緊縮財政を行なっているときに、日光参拝は復活した。その後も歴代ごとに行なわれることがなく、十代家治、十二代家慶の御世にのみ行なわれた。
日光参拝が敬遠された理由は、費用が掛かりすぎる点にあった。
大御所政治を敷いた家斉も、文政九年に日光参拝を計画しながらも、金銭的理由により断念した。
この日光参拝に並々ならぬ意欲を燃やした男がいる。ほかならぬ老中・水野忠邦である。
忠邦は、天保の改革の倹約政治だけが喧伝されるが、一方では思い切った金の使い方をした人物である。
家慶の日光参拝を忠邦が計画し始めたのは、天保十一年頃と言われ、同年十月には作事奉行若林佐渡守と勘定吟味役中野又兵衛を日光に霊廟や諸堂社の修復のために派遣している。翌十二年正月には日光神領の改革も開始されている。
忠邦は参拝の費用は倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした。三年来の長期計画を立てた念の入れようで、相当な散財となるこの行事を成功に導いた。
寛政六年、忠邦は肥後国唐津六万石の藩主水野忠光の子として生まれている。十九歳にして家督を継ぐと、幕政の中枢への憧れ捨て難い彼は浜松藩六万石への転封を上申する。唐津藩は長崎警護の任務があり、幕閣に列席できなかったからである。
浜松藩も唐津とお同じ六万石であったが、石高には表高と内高がある。表高は格式とも言うべきもので、この大小によって家の格式や江戸城での部屋が決定される。内高は実質的に収穫される石高のことである。浜松は格式が高い家だったので、表高も内高もほぼ同じ六万石であったのに対し、唐津は表高六万石、内高二十万石であった。
家臣の猛反対を押し切って浜松に転封になった忠邦はそれ以降、中央への足掛かりを作ることに成功していくのだが、この計算などを見ても、忠邦は人とは違った算盤を持っていた男と言える。
「天高く」より引用
注目されるのは参拝の費用を「倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした」という点である。
日光参拝は徳川幕府の権威復活を示すデモンストレーションであったが、天保の改革の倹約も、費用捻出ための一環であったのだ。
忠邦が老中を罷免されたとき、江戸町民は忠邦の屋敷に石を投げて喜んだと言う。
そんな没落を見て、かつてはこびへつらうように従っていた町奉行・鳥居耀蔵らは手のひらを返したように冷たく接したのであるが、忠邦は翌年に再び老中に返り咲いている。
忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。
時代に逆行したと言われる天保の改革を行った忠邦は過小評価される場合が多いように思うが、信念の人だったには違いない。
政策的な評価は別として、私の目には忠邦は魅力的な人物に映る。
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