現代はインターネットで何でも注文できる時代となった。
けれども、インターネットゆえの問題もある。本などは中身を見れない場合が多いし、食品なども写真や情報で判断するしかない。
その点、江戸時代は棒手振り{ぼてふり}が長屋の軒先まで売りに来た。
棒手振りとは、商品の入った籠を肩に担いだ棒の両方に吊り下げ、行商に来る商人である。
その場で野菜や魚の鮮度や状態を確かめることができたし、麦飯や菜飯なども売りに来た。
行商が売りに来たものとしては、卵、針、洗濯後の着物につける糊、団子、薬、ござ、塩、あゆ、朝顔、桜草、花火、金魚など多種に亘る。
床屋も廻って来たし、廃品回収も来た。
驚くのは、卵屋なら卵だけ、針屋なら針だけを売りに来ていたことだ。単品だけ扱っていては、売り上げもしれたものだろうが、それでも何とか生活できた江戸時代というのは、何とも優雅な時代だった。
浅野史良氏の「数字で読むおもしろ日本史」(日本文芸社)によると、「文政年間漫録」からの事例として、棒手振りの収入を説明している。
以下は要約である。
夜明けとともに銭六百文から七百文を持ってダイコンやレンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。一日中、町の路地裏まで入っていき、日が沈んだころ、自分たちの食べる分だけを少しだけ残して長屋に帰ってくる。棒手振りは財布から稼ぎを出し、明日の仕入れ用の金を除き、家賃分を竹筒に納める。棒手振りは米代として二百文、味噌や醤油代として五十文を女房に渡す。さらに子供たちに菓子代として十三文ほど手渡すと、手元には百から二百文が残る。ここから酒代として少し抜き、残りは雨で商売に出られない日のつなぎ用として竹筒に入れる。
なんだか小学生の足し算・引き算の問題のようになってしまったが、大まかに一文30円と計算すると、収支は下記のようになる。
(収入)
元金 700文 (21,000円)
野菜の売上 1,200文(36,000円)・推定
合計 1,900文(57,000円)
(支出)
野菜の仕入れ値 681文(20,430円)・推定
米代 200文(6,000円)
味噌・醤油代 50文(1,500円)
菓子代 13文(390円)
酒代(2合) 16文(480円)
家賃用貯蓄 40文(1,200円)・推定
貯蓄 200文(6,000円)
翌日への繰り越し 700文(21,000円)
合計 1,900文(57,000円)
つまり野菜を仕入れて販売する経済活動により、棒手振りは1200文-681文=519文(15,570円)儲けたことになる。
もちろん、これほど儲からない日もあるし、商売に出られない日もあるが、単純に月22日稼働と計算すると、年収411万円となる。
貧しい棒手振りという固定観念からすると、少しイメージが違う。
家賃は毎日40文も貯蓄しなければならない訳ではなかった。
この文政のころであれば、家賃は二間の長屋で300文(9000円)、二間半の長屋で400文(12,000円)ほどであったからだ。
この日は、売り上げ好調で、このように米や味噌・醤油に家賃用にまで金をまわして余裕があったようだ。
こうしてみると八百屋というのは稼ぎがよかったようにもみえるが、単品を売って歩く棒手振りの収支はどうだったのだろうか、と気になってしまう。
江戸の売り声を芸にしている宮田章司さんが著書「江戸の売り声百景」(岩波アクティブ新書)の中で下記のようなことを書かれている。
昔の物売りは、納豆屋なら納豆、鰯屋なら鰯、花にしたって季節によってサクラソウ売りがいるかと思えば、朝顔の苗売りなんていうのもいる。お盆になったら迎え日用のおがら売り、月見のころはススキ売り。こんな具合に単品をちょっとづつ売って、それでも暮せたということ自体、すごい時代だと思うんですよね。食うや食わずだったかもしれない。でもものすごく活気があった大都市、江戸。
野菜を扱う棒手振りにせよ、今では考えられないほど高利益を得ていたし、単品を扱う棒手振りもそれなりの高い利益率を保っていたに違いない。
ではそれが現代でいう適正利益でなく、暴利だったかというと、そんなことはない。
みんなが暮らしていけるだけの相互利益を得ていたのだと思う。
江戸の時代は、現代の100円ショップのように安い=大事にしない、という発想ではなく、高い=大事にする、という発想であった。
インターネットで1円でも安い商品を探すことはせず、高ければ諦めるだけだった。
生鮮食品にしろ、現代の感覚からすると、高いと感じる価格で取引されていた。
高いのであれば、食べる量を減らせばよい。それが江戸時代の考え方のような気がする。
安いものを多く食べるのも、高いものを少なく食べるのも、費用的には同じだ。
安いものを多く食べられるようになった現代人は幸せかというと、必ずしもそうではない。
食べ過ぎや飲み過ぎによる成人病の急増、安ければいいだろうという安易な販売者の増加。
食の安全が失われたのは、低価格を求め過ぎる消費者の責任でもある。
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けれども、インターネットゆえの問題もある。本などは中身を見れない場合が多いし、食品なども写真や情報で判断するしかない。
その点、江戸時代は棒手振り{ぼてふり}が長屋の軒先まで売りに来た。
棒手振りとは、商品の入った籠を肩に担いだ棒の両方に吊り下げ、行商に来る商人である。
その場で野菜や魚の鮮度や状態を確かめることができたし、麦飯や菜飯なども売りに来た。
行商が売りに来たものとしては、卵、針、洗濯後の着物につける糊、団子、薬、ござ、塩、あゆ、朝顔、桜草、花火、金魚など多種に亘る。
床屋も廻って来たし、廃品回収も来た。
驚くのは、卵屋なら卵だけ、針屋なら針だけを売りに来ていたことだ。単品だけ扱っていては、売り上げもしれたものだろうが、それでも何とか生活できた江戸時代というのは、何とも優雅な時代だった。
浅野史良氏の「数字で読むおもしろ日本史」(日本文芸社)によると、「文政年間漫録」からの事例として、棒手振りの収入を説明している。
以下は要約である。
夜明けとともに銭六百文から七百文を持ってダイコンやレンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。一日中、町の路地裏まで入っていき、日が沈んだころ、自分たちの食べる分だけを少しだけ残して長屋に帰ってくる。棒手振りは財布から稼ぎを出し、明日の仕入れ用の金を除き、家賃分を竹筒に納める。棒手振りは米代として二百文、味噌や醤油代として五十文を女房に渡す。さらに子供たちに菓子代として十三文ほど手渡すと、手元には百から二百文が残る。ここから酒代として少し抜き、残りは雨で商売に出られない日のつなぎ用として竹筒に入れる。
なんだか小学生の足し算・引き算の問題のようになってしまったが、大まかに一文30円と計算すると、収支は下記のようになる。
(収入)
元金 700文 (21,000円)
野菜の売上 1,200文(36,000円)・推定
合計 1,900文(57,000円)
(支出)
野菜の仕入れ値 681文(20,430円)・推定
米代 200文(6,000円)
味噌・醤油代 50文(1,500円)
菓子代 13文(390円)
酒代(2合) 16文(480円)
家賃用貯蓄 40文(1,200円)・推定
貯蓄 200文(6,000円)
翌日への繰り越し 700文(21,000円)
合計 1,900文(57,000円)
つまり野菜を仕入れて販売する経済活動により、棒手振りは1200文-681文=519文(15,570円)儲けたことになる。
もちろん、これほど儲からない日もあるし、商売に出られない日もあるが、単純に月22日稼働と計算すると、年収411万円となる。
貧しい棒手振りという固定観念からすると、少しイメージが違う。
家賃は毎日40文も貯蓄しなければならない訳ではなかった。
この文政のころであれば、家賃は二間の長屋で300文(9000円)、二間半の長屋で400文(12,000円)ほどであったからだ。
この日は、売り上げ好調で、このように米や味噌・醤油に家賃用にまで金をまわして余裕があったようだ。
こうしてみると八百屋というのは稼ぎがよかったようにもみえるが、単品を売って歩く棒手振りの収支はどうだったのだろうか、と気になってしまう。
江戸の売り声を芸にしている宮田章司さんが著書「江戸の売り声百景」(岩波アクティブ新書)の中で下記のようなことを書かれている。
昔の物売りは、納豆屋なら納豆、鰯屋なら鰯、花にしたって季節によってサクラソウ売りがいるかと思えば、朝顔の苗売りなんていうのもいる。お盆になったら迎え日用のおがら売り、月見のころはススキ売り。こんな具合に単品をちょっとづつ売って、それでも暮せたということ自体、すごい時代だと思うんですよね。食うや食わずだったかもしれない。でもものすごく活気があった大都市、江戸。
野菜を扱う棒手振りにせよ、今では考えられないほど高利益を得ていたし、単品を扱う棒手振りもそれなりの高い利益率を保っていたに違いない。
ではそれが現代でいう適正利益でなく、暴利だったかというと、そんなことはない。
みんなが暮らしていけるだけの相互利益を得ていたのだと思う。
江戸の時代は、現代の100円ショップのように安い=大事にしない、という発想ではなく、高い=大事にする、という発想であった。
インターネットで1円でも安い商品を探すことはせず、高ければ諦めるだけだった。
生鮮食品にしろ、現代の感覚からすると、高いと感じる価格で取引されていた。
高いのであれば、食べる量を減らせばよい。それが江戸時代の考え方のような気がする。
安いものを多く食べるのも、高いものを少なく食べるのも、費用的には同じだ。
安いものを多く食べられるようになった現代人は幸せかというと、必ずしもそうではない。
食べ過ぎや飲み過ぎによる成人病の急増、安ければいいだろうという安易な販売者の増加。
食の安全が失われたのは、低価格を求め過ぎる消費者の責任でもある。
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エコで、余分な物を持たない江戸時代の暮らしは、現代人が見習うぺきかもしれません。
文政年間の棒手振りの人、貯金までして、余裕の暮らしですね。「数字で読むおもしろ日本史」を読んでみたくなりました。