木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

忠義の碑・岩崎城

2009年03月11日 | 城趾
長久手城が出たついでではないが、岩崎城についても書きたい。
岩崎城の悲劇は有名である。
城主丹羽氏次が小牧に出征していて、留守を守っていたのは。氏次の甥であり、若干17歳の丹羽氏重である。
氏重は、全身の疱瘡が膿んでいて、兜を被るにも苦労する状況であった。
小牧・長久手の戦い時、膠着状態に陥った秀吉軍は、局面打開のため、家康の岡崎城を奇襲することを決意する(世に言う「中入り」という作戦である)。
小牧城から岡崎城に向かう途中の池田恒興軍が岩崎城に差し掛かったのは、払暁。
当初、道中を急ぐ池田軍は、岩崎城を素通りする予定でいた。
池田軍の進軍に気づいた氏次らは、いかに小城と言え、無視するとは馬鹿にしていると、攻撃を仕掛けた。思わぬ攻撃を受けた池田軍は、岩崎城を数にまかせて陥落させた。
城は何重にも包囲され、城の兵士はほぼ全員が殺戮された。
しかし、岩崎城で時間を取られた池田軍は、中入りに失敗してしまう。

この辺りの事情は、岩崎城HPに分かりやすく掲載されているので、そちらを参考にして頂きたい。
ここで、私が興味を持ったのは、「表忠義の碑」という存在である。
この碑は、岩崎城の一角に位置し、明治43年の建立。碑の文字は徳川慶喜が書いた。
この碑の存在は、大東亜戦争時にも利用された。
一億玉砕のスローガンの下、岩崎城の戦いは、いい事例になったのである。
軍服姿の兵士が、忠義の碑を見学に行っている写真が残されている。
岩崎城は、特に、この頃から名が知られるようになっていったようだ。
岩崎城は第二次世界対戦により、有名になったとも言えるのかも知れない。

岩崎城HP


岩崎城は、昭和62年に再築された。

併設する博物館にあるジオラマ。

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