今はどうか知らないけれど、昔は「遠足」という学校行事があった。
僕が通った小学校では、春に貸切バスで学年別(修学旅行のある6年生はお留守番)に違う場所へ出かける遠足、秋に徒歩で全校で同じ場所へ出かける遠足があった。
春の遠足は、学校からクラスメイトとともにバスに乗って移動するという非日常が楽しかった。その遠足のバスの話。※遠足とバスガイドの思い出の記事。
春の遠足のバスに関しては、学校にとってもバス会社にとっても、苦労があったらしい。
当時の一般的な規模の学校なら1校につき15台くらいが同じ日に必要だし、5~6月の平日という限られた期間に市内約40の小学校の遠足が集中する。雨天中止/順延になることもある。他にも幼稚園などの遠足もあるだろうし、一般の貸切業務もある。
当時はJRバス東北(国鉄バス)は進出前だし、今のように貸切専業の新規事業者はなかったはず。秋田市交通局(秋田市営バス)と秋田中央交通の2者(と羽後交通も?)で、そのすべてをまかなわなければならなかったのだ。
各学校では予約と日程調整が大変だっただろうし、バス会社は車両・乗務員の確保に苦労したことだろう。
その対策の1つとして秋田市交通局がとっていたのが、通称「ワンロマ車」の導入。※以前の車体の塗装の記事で触れています
ワンロマ車とは「路線バスにも貸切バスにも使える兼用車両」のこと。全国的に見れば同じコンセプトの車両を保有する事業者がいくつか存在する(した)。
「ワンロマ」という言葉は、「ワンマン(=路線バス)」と「ロマンスシート(=貸切バス)」の間の子ということ。Wikipediaによれば京王電鉄バスが使い始めたもので、他の一部バス会社内やバス愛好家に広まった呼称。秋田市交通局で使っていたかは不明。
なお、貸切バス専用だった車両が古くなるなどして路線バス用に変更(格下げ)されることや、路線バス専用の車両を臨時に貸切業務に使うことは、あまりワンロマとは呼ばないはず。あくまでも、路線と貸切を兼ねる目的で導入されて使われる車両のことを指す。(明確な定義はないので、いろいろあるでしょうけれど)
他の事業者のワンロマも似たようなものだと思うが、秋田市交通局のワンロマ車は、普段は路線バスとして走り、必要に応じて貸切に回るというもの。そのため、ベースとなる車種は貸切用車種ではなく、路線バス用の車種。
写りが悪いですが、卸センター経由新屋線に使われる1985年導入のワンロマ車・187号車
秋田市交通局では、どうも1960年代に初めてのワンロマ車が導入されていたような雰囲気もあるが、詳細は不明。塗装は当時の一般路線バスと同じだったらしい。
その次の、というか記録も僕自身の記憶もあるワンロマ車が1980年導入の車両。その後、1985年と1992年にも導入された。いずれも大型バス。
導入年が分かって、走っていた記憶がある、秋田市交通局の3世代のワンロマ車の装備を記憶の範囲内でまとめてみる。
●世代が違ってもおおむね共通の設備
・一般路線バスと同じく、車両の前のほか中央にもドアがある
・車外の行き先表示器、車内の運賃箱、整理券発券機、運賃表示器、降車合図ボタンなど、ワンマン運転用各種機器は、一般路線バスと同一
1992年車の車内。前方まで2人掛けで上に荷棚がある
・客席の椅子はすべて2人掛け(前ドアと中ドア直後の各1席を除く)。ただし、リクライニング機能などのない通常の路線バス仕様のシートで、布地は同時期の路線バスと同じ。1985年以前の車では背もたれの高さがやや高めか。1992年車では一般路線車でも高い背もたれが採用されていたので差はない(後述)
・補助席はなし
1985年の187号車車内。当時はエンジ色のシートだった(翌年から柄入りになる)。窓下に席番表示がある
・座席番号が表示されている(1992年車にはなし)
1985年車の席番表示。いすゞ(左)と三菱(右)で異なるデザイン
・1985年のいすゞと1992年の車には、通路天井に吊手(つり革)がなく、棒だけ(1985年の三菱車には数は少ないがあった)
分かりにくいけれど1985年三菱製194号車車内。少しだけつり革がぶら下がっている
・車内の一部に荷棚(パイプの網棚)がある ※中央交通では路線専用車でも一部に網棚がある車両があるが、市営バスの路線専用車にはなかった
・1985年車までは、前の席の背に灰皿があった(後に撤去)
1985年車。灰皿を撤去した位置にネジが残る
・車内の所々にマイクジャックの差込口がある
1992年車。降車ボタンの上にクラリオン製の差込口
【12日追記】他社のワンロマ車では、窓にカーテンが設置されているものもあるようだが、秋田市営バスのワンロマでは、路線専用車同様、日除けの類(スクリーンなども含めて)は一切なかった。
導入年ごとの差異。
●1980年車
・三菱製(愛好家に「ブルドッグ」と呼ばれるゴツゴツしたデザイン)でけっこうな台数(7~8台?)
(再掲)高知の土佐電ドリームサービスでがんばる1982年製の同型車(ワンロマではない)。市営バスのは行き先表示が小さかった
・号車番号480番代。少なくとも481号車と487号車は存在したはず。(交通局末期は297号車が最大だったが、過去は400番代まであった)【2013年4月15日追記】480号車も存在したらしい。したがって、480~487号車の8台だったかも。
・塗装は貸切専用車両と同じ(1985年車と同じ)
・三菱製なので新屋の南営業所に所属していたはず
・行き先表示が小型、冷房なし、中ドアが引き戸でなく折り戸(同時期の一般路線車と同じ仕様)
この翌年の導入車両あたりから、行き先表示が大型化されたり、冷房車になったりしたため、年式のわりには早期に「古い」と感じてしまう車両になってしまった。
1992年度末で廃車されたはず。(代替となる1992年のワンロマ車は、秋に導入されたので、半年ほどは共存していたようだ)
●1985年車
・いすゞLVキュービック 6台 182~187号車
・三菱エアロスター 2台 194・195号車
・塗装は貸切専用車両と同じ
(いずれも再掲)184号車と194号車
両車種ともモデルチェンジ直後であり、秋田市交通局では初の導入。秋田県内でも最初期だっただろう。
交通局の縮小に伴い、2000年度末で廃車。
195号車の座席。床は懐かしい板張り
上の写真に写っているように、三菱製の座席には、背中の部分に黒い半球状のものが埋め込まれていた。座ると違和感はなかったが、ネジ隠しとかだったのか?
●1992年車(秋に運行開始。導入時にはテレビのローカルニュースで報道された)
286号車
・日野ブルーリボン 4台 283~286号車
・「秋田八丈(秋田黄八丈)」の織物をモチーフにした専用塗装 ※一部サイト等で「秋田八景」とされているのは誤り
以下は、このワンロマならではの装備だと誤解される場合もあるがそうではなく、実際には同時期導入の大型路線専用車でも採用されていた点。
・側面の窓ガラスが青く着色され、下部が固定・上部がスライドして開閉する構造
・正面に「秋田市営」の行灯(側面後部は「秋田市営」ではなく「秋田市交通局」と表示)
・ハイバックシートと呼ばれる背もたれが高く、ヘッドレスト風のものが付いた座席(メーカーにより差があるが、1993年度の日野製路線専用大型車には同一のものが設置された)
どちらも1992年導入の大型車(後ろの路線専用車はいすゞ製)。ワンロマも路線専用も窓の仕様や正面の行灯は同じ
また、1992年度導入の路線専用車からは、バーコード付き整理券や新型運賃箱が設置されたが、ワンロマだけは従来通りのインク印字の整理券・普通の運賃箱(ただし紙幣両替は完全自動化)だった。
2002年度からは中央交通に譲渡されて、同社の通常の路線バスの塗装になり、現在も運行中(今年で20年目!)。【その後、2014年春までに全車両が廃車された】
【2017年6月18日補足】上の写真に写っているような、通常塗装ながら青い窓ガラスの大型バス(秋田八丈塗装と近い年式のいすゞと日野)も存在したが、これらは座席の数が少なく、ワンロマ車ではない。この世代では、あくまでも秋田八丈塗装のブルーリボンだけがワンロマであった。
いろいろ細かく書いたけれど、秋田市交通局のワンロマ車は、塗装のほかは路線車より座席の数が多いのが最大の違いであり、着席定員を増やすことに重きを置いたものと考えられる。
40人は着席できるだろうから、ちょうど学校の1クラス分が収まることになる。
でも、路線車ベースのため、タイヤ周辺などの座席の位置・高さにはちょっと無理がある。
1992年車の後輪上の席。足元がきつそう…
1985年車には灰皿もあったが、この仕様のバスで大人から金を取って団体旅行というのは無理があったのではないだろうか。
ちなみに、1992年車は窓ガラスの位置が高く、子どもが座ると外の景色が見づらかったかもしれない。むしろ1985年のいすゞのほうが窓が大きい感じがした。
他のバス会社では、ワンロマ車を路線バスとして使用する時は、路線やダイヤを限定することがあるようだ。座席数が多い分、立席スペースが少なかったり、通路が狭くて混雑時に支障をきたすためだろう。
秋田市営バスでは、路線専用仕様の他の大型バスと区別なく使用され、新屋、新国道方面などを走っていた。乗客の立場としては空いていればゆったりと座れたけれど、混雑時には通路が狭くて混雑が激しく感じられて嫌だった。
秋田市交通局では1997年度で貸切事業を廃止しているので、残ったワンロマ車も晩年は路線バス専用だったことになる。【11日追記】1998年度以降も、市立学校の宿泊研修の輸送などの業務は行なっていたようだ。この記事のコメント欄参照。
1992年車が譲渡された秋田中央交通では、同時期にほぼ同じ仕様の淡路島の「淡路交通」の中古(いすゞキュービック)を何台か導入している(座席が茶色いチェック)。
でもやっぱり、他の路線バスと一緒くたに使っているようで、ワンロマ車としての特性は発揮していないようだ。(たまにイベント等のシャトルバスとして使われていることもあるが、その時も一般路線バス車両も一緒に来ていたりするので)
僕は、ワンロマ車での遠足を経験している。小学校3年生の遠足で、1980年導入車に乗った。
3クラスだったので3台が来た。行き先は県立博物館経由で男鹿の寒風山。路線バスの車で当時は有料だった道路(県道55号線)を通って、寒風山へ登ったわけだ。
たしか、他の学年には貸切専用車が来ていた。市内の大森山へ行く1年生など移動が近距離の学年が専用車両で、比較的遠くへ行く3年生が路線バス兼用車なのが、ちょっと不満だった。他の子どもたちは、路線バスっぽい車で遠足に行くことは分かったらしいが、むしろ楽しんでいたかもしれない。降車ボタンを押してしまって、先生に怒られたりして。
もちろん、ちゃんとバスガイドさんも来てくれて、金足農業高校の実習田は砂地なので下にビニールを敷いていることを教えてくれたり、寒風山回転展望台の駐車場で笛を吹いてバスを誘導していたのを覚えている。※寒風山回転展望台は秋田中央交通の子会社の経営。市営バスで“敵地”に乗り込んだことになる。【2016年6月9日追記】回転展望台は元々は県営で、1985年に中央交通系列へ移管されたらしい。訪れた時は、ちょうどその前後だから、どちらがやっていたのかは不明。
道中では窓枠の差込口にマイクを差し込んで、歌を歌った子もいたかもしれない。
遠足に来たワンロマ車の行き先表示は、「貸 切」だったと思う。
※この記事冒頭の画像の「貸切」は1992年車のもの。1980年車は小型の表示器だったので書体などは異なったはず
末期の市営バスの行き先表示には青い文字で「秋田市営」、黒い文字で「会場行き」というコマもセットされており、貸切として使う場合にはこれらが使用されたこともあったかと思う。
「ワールドゲームズ2001」の観客輸送に当たる283号車
2001年夏に秋田県内各地で開催された「ワールドゲームズ2001」では、県内各事業者のバスが選手や観客輸送にフル稼働し、市営バスの1992年のワンロマ車も活躍した。
市営バスはその時点で既に貸切事業から撤退していたわけだが、「貸切」幕を見ることができた。
さらに、路線バス専用車両まで駆り出され、レアな路線車の「貸切」表示も見られた。
逆光ですが297号車
297号車は、1993年導入の日野製。前年のワンロマと共通する装備が多い。ヘッドライトは1992年車は丸型で、こちらは四角(後部のランプも異なる)。
別の機会には、こんなシーンも。
中型路線バス253号車の「貸切」(2001年1月26日)
この「貸切」バスは、秋田駅西口のバス乗り場のバス待機場に長時間停まっていて、動く気配がなかった。
バスには運転士のほかに交通局職員が乗っており、市営バスの路線バスが乗り場に入ってくる度に、銀色の箱を持ってそのバスに向かって行き、戻ってくることを繰り返していた。
おそらく、到着するバスの運賃箱から運賃や整理券が入った金庫(=銀色の箱)を回収し、代わりに空の金庫をセットしていたのだと思う。それを持ち帰り、各ダイヤごとの乗車人員や収入の調査・分析を行なっていたのではないだろうか。別の年にも、同じ時期に同じことが行われていたのを見た。
「貸切」というより「業務用車両」ということのようだ。
僕は、上の写真と同じような、路線バス専用車両の中型車の「貸切」にも乗ったことがあった。
県高校総体の開会式が雄和町(現・秋田市雄和)で行われた時、秋田市内の全高校の生徒が動員されたのだ。秋田駅東口に集合し、クラス単位で貸切バスで雄和へ運ばれた。
当時は東口も未整備だったし、何よりもバスの台数が多いので、駅から現在の中央道路地下トンネルの出入口付近にかけての路上に、バスが何十台も縦列に停まっていた。
バスも多種多様で、市営バス、中央交通とも貸切車から路線車まで来ていた。
僕のクラスは市営バスの中型・日野レインボーの193号車。当然、クラス全員が着席することはできず、つり革につかまっての移動だった。
一方で、他校は貸切でしかもスーパーハイデッカーの「わかくさ号」が割り当たっていたりして、不公平に感じたものだった。
ほかにも、市内の小学校6年生が八橋陸上競技場に来て行う陸上記録大会の時にも路線車の貸切を見たことがある。
比較的短距離・短時間で、単なる移動手段として利用される場合には、路線車を貸切に使うことがあったようだ。
最後に、貸切専用車両について少々。
遠足以外の学校行事、大森山の宿泊研修(小5・中1)や市内各所への社会科見学(小3・4)、冬のスキー教室(小4~6)などでは、貸切専用車両に乗った記憶しかない。時期的に需要が少なく、車両が空いていたのだろうか。
中でも、当時は新車に近かった名前(愛称)付きのバスが来ると、特にうれしかった。
二階建て「みはらし号(181号車)」と中二階建て(スーパーハイデッカー)「わかくさ号(199号車)」は別格として、1985年導入の160番代の貸切車両にも、1台ごとに公募で愛称が付けられていた。
1985年10月10日付広報あきた1006号によれば、あきたふき号、さつき号、こまち号、おばこ号、まごころ号、けやき号、かんとう号、ふれあい号。
※おばこ号は164号車だったが他は何号車か不明。わかくさは秋田市の色である「若草色」、さつきとけやきは秋田市の花と木、かんとうは「竿燈まつり(命名当時は竿“灯”と表記)」にちなむもの。
秋田新幹線より10年早く「こまち号」もあったのだ。
翌年には、わかば号、やどめ号(どっちがどっちかは不明だけど200・201号車)も導入された。
【12日追記】市営バスの貸切バスに関連して、過去にこんな記事もありました。市営バスカテゴリーの記事でないので、リンクしておきます。
2008年12月21日 やまびこ号・まんたらめ号
僕が通った小学校では、春に貸切バスで学年別(修学旅行のある6年生はお留守番)に違う場所へ出かける遠足、秋に徒歩で全校で同じ場所へ出かける遠足があった。
春の遠足は、学校からクラスメイトとともにバスに乗って移動するという非日常が楽しかった。その遠足のバスの話。※遠足とバスガイドの思い出の記事。
春の遠足のバスに関しては、学校にとってもバス会社にとっても、苦労があったらしい。
当時の一般的な規模の学校なら1校につき15台くらいが同じ日に必要だし、5~6月の平日という限られた期間に市内約40の小学校の遠足が集中する。雨天中止/順延になることもある。他にも幼稚園などの遠足もあるだろうし、一般の貸切業務もある。
当時はJRバス東北(国鉄バス)は進出前だし、今のように貸切専業の新規事業者はなかったはず。秋田市交通局(秋田市営バス)と秋田中央交通の2者(と羽後交通も?)で、そのすべてをまかなわなければならなかったのだ。
各学校では予約と日程調整が大変だっただろうし、バス会社は車両・乗務員の確保に苦労したことだろう。
その対策の1つとして秋田市交通局がとっていたのが、通称「ワンロマ車」の導入。※以前の車体の塗装の記事で触れています
ワンロマ車とは「路線バスにも貸切バスにも使える兼用車両」のこと。全国的に見れば同じコンセプトの車両を保有する事業者がいくつか存在する(した)。
「ワンロマ」という言葉は、「ワンマン(=路線バス)」と「ロマンスシート(=貸切バス)」の間の子ということ。Wikipediaによれば京王電鉄バスが使い始めたもので、他の一部バス会社内やバス愛好家に広まった呼称。秋田市交通局で使っていたかは不明。
なお、貸切バス専用だった車両が古くなるなどして路線バス用に変更(格下げ)されることや、路線バス専用の車両を臨時に貸切業務に使うことは、あまりワンロマとは呼ばないはず。あくまでも、路線と貸切を兼ねる目的で導入されて使われる車両のことを指す。(明確な定義はないので、いろいろあるでしょうけれど)
他の事業者のワンロマも似たようなものだと思うが、秋田市交通局のワンロマ車は、普段は路線バスとして走り、必要に応じて貸切に回るというもの。そのため、ベースとなる車種は貸切用車種ではなく、路線バス用の車種。
写りが悪いですが、卸センター経由新屋線に使われる1985年導入のワンロマ車・187号車
秋田市交通局では、どうも1960年代に初めてのワンロマ車が導入されていたような雰囲気もあるが、詳細は不明。塗装は当時の一般路線バスと同じだったらしい。
その次の、というか記録も僕自身の記憶もあるワンロマ車が1980年導入の車両。その後、1985年と1992年にも導入された。いずれも大型バス。
導入年が分かって、走っていた記憶がある、秋田市交通局の3世代のワンロマ車の装備を記憶の範囲内でまとめてみる。
●世代が違ってもおおむね共通の設備
・一般路線バスと同じく、車両の前のほか中央にもドアがある
・車外の行き先表示器、車内の運賃箱、整理券発券機、運賃表示器、降車合図ボタンなど、ワンマン運転用各種機器は、一般路線バスと同一
1992年車の車内。前方まで2人掛けで上に荷棚がある
・客席の椅子はすべて2人掛け(前ドアと中ドア直後の各1席を除く)。ただし、リクライニング機能などのない通常の路線バス仕様のシートで、布地は同時期の路線バスと同じ。1985年以前の車では背もたれの高さがやや高めか。1992年車では一般路線車でも高い背もたれが採用されていたので差はない(後述)
・補助席はなし
1985年の187号車車内。当時はエンジ色のシートだった(翌年から柄入りになる)。窓下に席番表示がある
・座席番号が表示されている(1992年車にはなし)
1985年車の席番表示。いすゞ(左)と三菱(右)で異なるデザイン
・1985年のいすゞと1992年の車には、通路天井に吊手(つり革)がなく、棒だけ(1985年の三菱車には数は少ないがあった)
分かりにくいけれど1985年三菱製194号車車内。少しだけつり革がぶら下がっている
・車内の一部に荷棚(パイプの網棚)がある ※中央交通では路線専用車でも一部に網棚がある車両があるが、市営バスの路線専用車にはなかった
・1985年車までは、前の席の背に灰皿があった(後に撤去)
1985年車。灰皿を撤去した位置にネジが残る
・車内の所々にマイクジャックの差込口がある
1992年車。降車ボタンの上にクラリオン製の差込口
【12日追記】他社のワンロマ車では、窓にカーテンが設置されているものもあるようだが、秋田市営バスのワンロマでは、路線専用車同様、日除けの類(スクリーンなども含めて)は一切なかった。
導入年ごとの差異。
●1980年車
・三菱製(愛好家に「ブルドッグ」と呼ばれるゴツゴツしたデザイン)でけっこうな台数(7~8台?)
(再掲)高知の土佐電ドリームサービスでがんばる1982年製の同型車(ワンロマではない)。市営バスのは行き先表示が小さかった
・号車番号480番代。少なくとも481号車と487号車は存在したはず。(交通局末期は297号車が最大だったが、過去は400番代まであった)【2013年4月15日追記】480号車も存在したらしい。したがって、480~487号車の8台だったかも。
・塗装は貸切専用車両と同じ(1985年車と同じ)
・三菱製なので新屋の南営業所に所属していたはず
・行き先表示が小型、冷房なし、中ドアが引き戸でなく折り戸(同時期の一般路線車と同じ仕様)
この翌年の導入車両あたりから、行き先表示が大型化されたり、冷房車になったりしたため、年式のわりには早期に「古い」と感じてしまう車両になってしまった。
1992年度末で廃車されたはず。(代替となる1992年のワンロマ車は、秋に導入されたので、半年ほどは共存していたようだ)
●1985年車
・いすゞLVキュービック 6台 182~187号車
・三菱エアロスター 2台 194・195号車
・塗装は貸切専用車両と同じ
(いずれも再掲)184号車と194号車
両車種ともモデルチェンジ直後であり、秋田市交通局では初の導入。秋田県内でも最初期だっただろう。
交通局の縮小に伴い、2000年度末で廃車。
195号車の座席。床は懐かしい板張り
上の写真に写っているように、三菱製の座席には、背中の部分に黒い半球状のものが埋め込まれていた。座ると違和感はなかったが、ネジ隠しとかだったのか?
●1992年車(秋に運行開始。導入時にはテレビのローカルニュースで報道された)
286号車
・日野ブルーリボン 4台 283~286号車
・「秋田八丈(秋田黄八丈)」の織物をモチーフにした専用塗装 ※一部サイト等で「秋田八景」とされているのは誤り
以下は、このワンロマならではの装備だと誤解される場合もあるがそうではなく、実際には同時期導入の大型路線専用車でも採用されていた点。
・側面の窓ガラスが青く着色され、下部が固定・上部がスライドして開閉する構造
・正面に「秋田市営」の行灯(側面後部は「秋田市営」ではなく「秋田市交通局」と表示)
・ハイバックシートと呼ばれる背もたれが高く、ヘッドレスト風のものが付いた座席(メーカーにより差があるが、1993年度の日野製路線専用大型車には同一のものが設置された)
どちらも1992年導入の大型車(後ろの路線専用車はいすゞ製)。ワンロマも路線専用も窓の仕様や正面の行灯は同じ
また、1992年度導入の路線専用車からは、バーコード付き整理券や新型運賃箱が設置されたが、ワンロマだけは従来通りのインク印字の整理券・普通の運賃箱(ただし紙幣両替は完全自動化)だった。
2002年度からは中央交通に譲渡されて、同社の通常の路線バスの塗装になり、現在も運行中(今年で20年目!)。【その後、2014年春までに全車両が廃車された】
【2017年6月18日補足】上の写真に写っているような、通常塗装ながら青い窓ガラスの大型バス(秋田八丈塗装と近い年式のいすゞと日野)も存在したが、これらは座席の数が少なく、ワンロマ車ではない。この世代では、あくまでも秋田八丈塗装のブルーリボンだけがワンロマであった。
いろいろ細かく書いたけれど、秋田市交通局のワンロマ車は、塗装のほかは路線車より座席の数が多いのが最大の違いであり、着席定員を増やすことに重きを置いたものと考えられる。
40人は着席できるだろうから、ちょうど学校の1クラス分が収まることになる。
でも、路線車ベースのため、タイヤ周辺などの座席の位置・高さにはちょっと無理がある。
1992年車の後輪上の席。足元がきつそう…
1985年車には灰皿もあったが、この仕様のバスで大人から金を取って団体旅行というのは無理があったのではないだろうか。
ちなみに、1992年車は窓ガラスの位置が高く、子どもが座ると外の景色が見づらかったかもしれない。むしろ1985年のいすゞのほうが窓が大きい感じがした。
他のバス会社では、ワンロマ車を路線バスとして使用する時は、路線やダイヤを限定することがあるようだ。座席数が多い分、立席スペースが少なかったり、通路が狭くて混雑時に支障をきたすためだろう。
秋田市営バスでは、路線専用仕様の他の大型バスと区別なく使用され、新屋、新国道方面などを走っていた。乗客の立場としては空いていればゆったりと座れたけれど、混雑時には通路が狭くて混雑が激しく感じられて嫌だった。
秋田市交通局では1997年度で貸切事業を廃止しているので、残ったワンロマ車も晩年は路線バス専用だったことになる。【11日追記】1998年度以降も、市立学校の宿泊研修の輸送などの業務は行なっていたようだ。この記事のコメント欄参照。
1992年車が譲渡された秋田中央交通では、同時期にほぼ同じ仕様の淡路島の「淡路交通」の中古(いすゞキュービック)を何台か導入している(座席が茶色いチェック)。
でもやっぱり、他の路線バスと一緒くたに使っているようで、ワンロマ車としての特性は発揮していないようだ。(たまにイベント等のシャトルバスとして使われていることもあるが、その時も一般路線バス車両も一緒に来ていたりするので)
僕は、ワンロマ車での遠足を経験している。小学校3年生の遠足で、1980年導入車に乗った。
3クラスだったので3台が来た。行き先は県立博物館経由で男鹿の寒風山。路線バスの車で当時は有料だった道路(県道55号線)を通って、寒風山へ登ったわけだ。
たしか、他の学年には貸切専用車が来ていた。市内の大森山へ行く1年生など移動が近距離の学年が専用車両で、比較的遠くへ行く3年生が路線バス兼用車なのが、ちょっと不満だった。他の子どもたちは、路線バスっぽい車で遠足に行くことは分かったらしいが、むしろ楽しんでいたかもしれない。降車ボタンを押してしまって、先生に怒られたりして。
もちろん、ちゃんとバスガイドさんも来てくれて、金足農業高校の実習田は砂地なので下にビニールを敷いていることを教えてくれたり、寒風山回転展望台の駐車場で笛を吹いてバスを誘導していたのを覚えている。※寒風山回転展望台は秋田中央交通の子会社の経営。市営バスで“敵地”に乗り込んだことになる。【2016年6月9日追記】回転展望台は元々は県営で、1985年に中央交通系列へ移管されたらしい。訪れた時は、ちょうどその前後だから、どちらがやっていたのかは不明。
道中では窓枠の差込口にマイクを差し込んで、歌を歌った子もいたかもしれない。
遠足に来たワンロマ車の行き先表示は、「貸 切」だったと思う。
※この記事冒頭の画像の「貸切」は1992年車のもの。1980年車は小型の表示器だったので書体などは異なったはず
末期の市営バスの行き先表示には青い文字で「秋田市営」、黒い文字で「会場行き」というコマもセットされており、貸切として使う場合にはこれらが使用されたこともあったかと思う。
「ワールドゲームズ2001」の観客輸送に当たる283号車
2001年夏に秋田県内各地で開催された「ワールドゲームズ2001」では、県内各事業者のバスが選手や観客輸送にフル稼働し、市営バスの1992年のワンロマ車も活躍した。
市営バスはその時点で既に貸切事業から撤退していたわけだが、「貸切」幕を見ることができた。
さらに、路線バス専用車両まで駆り出され、レアな路線車の「貸切」表示も見られた。
逆光ですが297号車
297号車は、1993年導入の日野製。前年のワンロマと共通する装備が多い。ヘッドライトは1992年車は丸型で、こちらは四角(後部のランプも異なる)。
別の機会には、こんなシーンも。
中型路線バス253号車の「貸切」(2001年1月26日)
この「貸切」バスは、秋田駅西口のバス乗り場のバス待機場に長時間停まっていて、動く気配がなかった。
バスには運転士のほかに交通局職員が乗っており、市営バスの路線バスが乗り場に入ってくる度に、銀色の箱を持ってそのバスに向かって行き、戻ってくることを繰り返していた。
おそらく、到着するバスの運賃箱から運賃や整理券が入った金庫(=銀色の箱)を回収し、代わりに空の金庫をセットしていたのだと思う。それを持ち帰り、各ダイヤごとの乗車人員や収入の調査・分析を行なっていたのではないだろうか。別の年にも、同じ時期に同じことが行われていたのを見た。
「貸切」というより「業務用車両」ということのようだ。
僕は、上の写真と同じような、路線バス専用車両の中型車の「貸切」にも乗ったことがあった。
県高校総体の開会式が雄和町(現・秋田市雄和)で行われた時、秋田市内の全高校の生徒が動員されたのだ。秋田駅東口に集合し、クラス単位で貸切バスで雄和へ運ばれた。
当時は東口も未整備だったし、何よりもバスの台数が多いので、駅から現在の中央道路地下トンネルの出入口付近にかけての路上に、バスが何十台も縦列に停まっていた。
バスも多種多様で、市営バス、中央交通とも貸切車から路線車まで来ていた。
僕のクラスは市営バスの中型・日野レインボーの193号車。当然、クラス全員が着席することはできず、つり革につかまっての移動だった。
一方で、他校は貸切でしかもスーパーハイデッカーの「わかくさ号」が割り当たっていたりして、不公平に感じたものだった。
ほかにも、市内の小学校6年生が八橋陸上競技場に来て行う陸上記録大会の時にも路線車の貸切を見たことがある。
比較的短距離・短時間で、単なる移動手段として利用される場合には、路線車を貸切に使うことがあったようだ。
最後に、貸切専用車両について少々。
遠足以外の学校行事、大森山の宿泊研修(小5・中1)や市内各所への社会科見学(小3・4)、冬のスキー教室(小4~6)などでは、貸切専用車両に乗った記憶しかない。時期的に需要が少なく、車両が空いていたのだろうか。
中でも、当時は新車に近かった名前(愛称)付きのバスが来ると、特にうれしかった。
二階建て「みはらし号(181号車)」と中二階建て(スーパーハイデッカー)「わかくさ号(199号車)」は別格として、1985年導入の160番代の貸切車両にも、1台ごとに公募で愛称が付けられていた。
1985年10月10日付広報あきた1006号によれば、あきたふき号、さつき号、こまち号、おばこ号、まごころ号、けやき号、かんとう号、ふれあい号。
※おばこ号は164号車だったが他は何号車か不明。わかくさは秋田市の色である「若草色」、さつきとけやきは秋田市の花と木、かんとうは「竿燈まつり(命名当時は竿“灯”と表記)」にちなむもの。
秋田新幹線より10年早く「こまち号」もあったのだ。
翌年には、わかば号、やどめ号(どっちがどっちかは不明だけど200・201号車)も導入された。
【12日追記】市営バスの貸切バスに関連して、過去にこんな記事もありました。市営バスカテゴリーの記事でないので、リンクしておきます。
2008年12月21日 やまびこ号・まんたらめ号