「気」とは瞬間的な爆発力であり、究極の運動神経といえます。
完全なリラックス状態から非常な緊張状態へ移行します。
「気」が出る・・とは、偶然たまたま出るもの・・ではなく、
地道な努力をした者が気というものを手に入れることが出来るのです。
禅
日本で一般的に行われている禅は座って行う座禅であるが、中国の武術には立って禅を組む立禅というものがある。
立禅を組む事により、人は自分の持つ内的な力をより強力にすることができ、瞬間的な爆発力を養成できる。この
内部から発する瞬間的な爆発力は、一般に「気」と呼ばれている。立禅は気功法としてのこの気を養うために行う
のである。
さて、気であるが、気は説明によって理解することはほとんど不可能である。もし、気を教えるものがいたとして
も、それは本当の気ではなく、恐らく言葉上の気に過ぎないであろう。気は結局、厳しい稽古や実戦の中で相手と
対峙したとき会得するよりほかに方法はないのである。数千年の中国の歴史の中でも、気は自分への厳しい稽古の
中で、自分自身でしか会得できないものとされている。形意拳、大成拳、太気拳の名人の場合、すべて禅の稽古に
より、この気を会得したのである。
前にも述べたが、私が気の説明を王 先生から受けたとき、理解できなかった。しかし、先生が言われた通り禅
の稽古を何年も積んで後、それも中国から日本に帰り、いろいろな人との立合の中で、ある日突然「これが気だ!」
と悟ったのである。王 先生は気の説明でつぎのように言われた。「気というものの雰囲気をつかむのに例を挙
てみると、水の中に魚がゆっくり泳いでいる。そこに小石をポンと投げ入れると、魚はさっと泳ぎ去る。一瞬ので
きごと、一瞬の速さ。気はそれに似ている。それは一般にいう運動神経ではなくそれ以上のものである」と。
王 先生が言われたことは真実であった。そして、私も弟子に同じことを言っているのである。
気が会得でき、相手との立合において気が発揮できれば、相手が攻撃してきたとき、自然な自分の体の動きに自分
自身をまかせることができる。ところが、気の会得がなければ、筋肉の鍛錬をどれだけしても、相手が攻撃してく
るときに、自分も一緒に相手の方へ出ていくことはできないであろう。勿論、玉砕覚悟で相手に突っ込んでいくこ
とは考えられるが、そのようなことは若い一時期はできるかも知れないが、武道家のやることではない。また、突
きや蹴り技を速くするための稽古を何年しても、その速さは二倍になることはなく、あとは齢をとるにつれて遅く
なる一方である。しかし、気が会得できれば、誰でも効果的な速い突き、速い蹴り技を出すことができるであろう。
このように、相手が攻撃してくるとき、自然に無理なく無意識に相手の中に入り、しかも相手と交差するとき、常
に自分の体が防御されているというのは、攻撃の速さの問題ではなく、気が会得できているか否かの問題である。
太気拳が行う立禅の姿勢は、単なる「立った姿勢」ではなく、その立ち方そのものが内臓諸器官や足・腰を鍛錬す
る具体的な方法であること、それ故に立禅を長く組む事が、足・腰をより強靭にすることにつながる。
立禅は、早朝、野外で組むのが最も良い。人間は自然の中で初めて新しい気力というものが湧き出るものだ。まし
て、一生、武術家として歩むつもりがあれば、どこででも稽古できなければならない。同じ場所、同じ道場で、
さらに相手がいなければ練習できないというのでは「武術家」としては程遠く、単なる一人の「武術に興味ある人間」
でしかない。自然の木立に囲まれた所で禅を組むと、たとえようのないほど良い気分になり、自分も自然の一部分
となる。気はこうした自然の中で禅を組むことによって生まれるのである。
実践中国拳法太気拳 澤井健一著より