🌸貞観政要(じょうがんせいよう )
☆中国唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録
☆唐代に日本に伝わり、日本以外朝鮮・女真・西夏でも訳されている
☆貞観政要の三つの鏡
*銅の鏡(自分の姿見る鏡)
*歴史の鏡(賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ)
*人の鏡(人が自分を見る姿を認識する)
⛳貞観政要大要と背景
☆古来から帝王学の教科書とされてきた
☆太宗とそれを補佐した臣下たちの貞観の治と言われている
*非常に平和でよく治まった時代をもたらした
☆太宗が傑出していたのは
*自身が臣下を戒め指導する英明な君主であったばかりでなく
*臣下の直言を喜んで受け入れ
*常に最善の君主であらねばならないと努力したこと
☆中国には秦以来、皇帝に忠告する、諫官という職務がある
*歴代の王朝に諫官が置かれた
*太宗のように諌官の忠告を聞き入れていた皇帝は極めて稀
*皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官も多かった
☆太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた
*太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜ぶ
*至極もっともな言葉であると称賛し
*普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた
☆太宗は質素倹約を奨励し国民の蓄財は豊かになった
☆国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行
*儒教の精神からくるといわれている
☆中国では後の歴代王朝の君主も愛読した
*元のクビライも愛読している
☆日本にも平安時代に古写本が伝わった
*北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読された
⛳『貞観政要』編纂の動機
☆本書の編纂は呉兢によるもの
☆呉兢は、太宗の治績に詳しいことから編集した
☆貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから
*『貞観政要』を編纂して唐の中宗に上進した
⛳『貞観政要』君道篇
☆帝王の業で、創業と守成のどちらが困難と考えるかとの問い
☆1人の諫官(玄齢)は答えた
*天下が乱れ、各地に群雄が競い立っている状況下
*これを攻め破り、従わせ、戦に勝ち抜かなければなりません
*そのことから創業の方が難しいと思います
☆他の1人の諫官(魏徴)は答えた
*帝王が新たに立つとき、衰え乱れさせた、ならず者を滅ぼします
*人民は新しい帝王を喜んで迎え、みな心を寄せて従います
*天子の位を得るとおごり高ぶるようになり、当初の志から外れます
*人民が平穏な生活を欲しても、労働の義務を課せられ、休めない
*国の衰退は常にこのようなことに起因し、守成の方が難しいと思います
☆太宗は述べた
*玄齢は昔、私に従って天下を平定した
(難関辛苦を嘗め、九死に一生を得たので、創業の方が難しいと考えた)
*魏徴は私とともに天下を安定させた
(勝手気ままな行動が始まれば、必ず滅亡に向かうと憂慮している)
(守成の方が難しいと考えた)
*今、創業の難は過ぎ去った
*これからは、まさに守成の難を君達とともに克服してゆきたい
⛳『貞観政要』君道篇
☆私は弓矢で四方の群雄を撃ち破り、弓を使うことが多かった
*しかし、その理を得ていない
☆天子となってまだ日が浅い
*政治のやり方の本質については弓以上に及ばないはず
*長年得意としてきた弓でさえもその奥儀を極めていない
*政治については全然わかっていないはずだ
☆太宗は在京の高級官僚を交替で宮中に宿直させた
*いつも召し出だして座を与え、ともに語り合うようになった
*人民の生活・政治の得失など世の中の動きを知ろうと努めた
⛳『貞観政要』求諫篇 ☆太宗の勇ましい姿は厳粛
*多くの臣下は太宗の前に出ると、皆その挙動をしくじる
☆太宗はそのことを知っている
*臣下が上奏するとき必ず顔色をやわらげて
*その意見を聞き政治の利害得失を知ろうとした
☆太宗は公卿に次のように語った
*人は自分を見ようと思えば必ず鏡を使う
*君主が過ちを知ろうと思えば必ず忠臣の諫言が必要である
*隋の煬帝の暴虐な君主
(臣下は口を塞ぎ、その過ちを聞くことなく遂に滅亡に至った)
*君達は人民が苦しんでいる状況を見たならば
*必ず思う存分いい尽くし、私を正し諫めなければならない
⛳『貞観政要』納諫篇
☆太宗が酒盛りをし、語っているとき太宗の側に女性が侍っていた
☆1人の諫官が語った
*今、このご婦人が陛下のお側に侍っています
*失礼ながら、陛下は略奪の是認されているのではないでしょうか
*陛下がもし非となされるならば、悪を知ってそれを除かないことです
☆太宗は大いに喜び、至極もっともであると称賛した
*その女性を親族のもとへ帰した
⛳『貞観政要』日本への影響
☆『貞観政要』は遅くても平安時代には日本に伝来している
☆藤原永範が高倉天皇に進講を行っている
☆鎌倉時代には北条政子が菅原為長に命じて和訳させた
*日蓮もこれを書写した
☆江戸時代初期には徳川家康が藤原惺窩を召して講義させた
*足利学校に命じて活字版を発刊させてその普及に努めた
☆明治天皇も侍講の進講を受け、深い関心を寄せた
(敬称略)
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⛳出典、『WIKIPEDIA』『中田敦彦YouTube』他
『貞観政要』(じょうがんせいよう )
(『中田敦彦YouTube』画面、ネットより画像引用)
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