慶喜

心意気
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源平の争い2(宇治川・一ノ谷の戦い)

2022年06月01日 | 歴史
🌸宇治川の戦い

 ☆京を守る絶対防衛線で繰りひろげた同族の争い

平安時代の宇治川の戦い
 ☆義仲に失望した後白河法皇は、鎌倉の頼朝と接近し始めた
 *反勢力に囲まれ立場が危うくなった義仲
 *法皇を幽閉して政権掌握をはかる
 ☆頼朝は、義仲を討つべく弟の範頼・義経を京へ派遣する
 *義仲は手勢わすかで迎え撃つしかなかった
 ☆宇治川の戦いが初陣となる義経
 *義経は、京の最終防衛線宇治川で義仲軍を撃破
 *京に入り、後白河法皇の保護に成功した
 ☆義仲は瀬田まで逃げるも範頼軍の矢を受け討死した

兵力を分散せぎるを得なかった義仲
 ☆頼朝の命令を受けた源範頼・義経が京へ攻め入る前
 ☆叔父の源行家、義仲に反旗を翻した
 *義仲は四天王の一人に500騎を預けて向かわせた
 ☆残った兵力で範頼・義経勢を迎えるしかなかった
 *今井兼平に500騎を預けて瀬田橋の防衛させた
 *志太義広に300騎を預けて宇治川の防衛に向かわせた
 *京では那波弘澄に、100騎で後白河院を警護させた

宇治川の先陣争い
 ☆佐々木高綱
 *先を進む梶原景季を追い越し対岸に先着して一番乗りを挙げた
 ☆お互いの先陣争いは、「平家物語」に取り入れられた

勝軍の将、源範頼
 ☆義経とともに大将として活躍した
 ☆源義朝の6男、頼朝の弟で義経の兄
 ☆頼朝の代官として平氏追討の一連の戦に参陣した
 ☆頼朝にに忠誠を誓い、義経の才を評価したうえで
 *己は大将として粛々と役割をまっとうした
 ☆平氏減亡後は、謀反の疑いをかけられ、流罪となった
 *その後の詳細は不明
 ☆平氏との和平の道は閉じ源平合戦へと突き進む

🌸一之谷の戦い

 ☆平氏に決定的な損害を与えた源義経の逆落とし

平安時代の一之谷の戦い
 ☆源範頼と義経は宇治川で快勝した後、平氏追撃を決定
 ☆京を進発し、二手に分かれて平氏のいる福原へ向かった
 ☆丹波路を進軍する義経、三草山で平氏軍を破る
 *一ノ谷の背後を目指して進んだ
 *平氏の水軍が厳重な防備を敷いていたが北側は手薄
 ☆義経は、急峻な崖を騎乗したまま駆け下りる
 (「逆落とし」を決行.不意を突かれ大混乱に陥った平氏軍)
 *海へ逃れ、讃岐国屋島へと向かった

平氏軍の背後から逆落としを決行した義経
 ☆義経自らが、7000騎を率いて鳴越に向かう
 *土肥実平に3000騎を預けて西から一ノ谷を攻めさせる
 ☆戦闘中一ノ谷背後の断崖絶壁から駆け下りるという奇襲を決行
 *不意打ちされた平氏軍は大混乱となり敗走した

福原を守る平氏を東西から挟み撃ち
 ☆平氏軍、
拠点である福原と大輪田泊を守るため
 *生田口と一ノ谷に防衛線を引いた
 ☆源範頼と義経は、京を出発した
 *範頼は約5万6000騎で山陽道を進む
 *義経は約1万騎を率いて丹波路を進む
 *東西から挟撃する作戦をとった
 ☆範頼は生田口を攻撃
 ☆一ノ谷口は土肥実平が攻め立てた
 *義経は、鉢伏山から一ノ谷口の戦いを見ていた
 *一斉に駆け下りて平氏軍を攻撃した

勝軍の将、源義経
 ☆数々の伝説に彩られた悲劇の将
 ☆源義朝の9男で、源頼朝の異母弟
 ☆父が死後、京の鞍馬寺に預けられた
 ☆奥州藤原氏の庇護を受けて成長した
 ☆兄・頼朝に代わって数々戦いに参戦した
 *奇襲を駆使した戦術で平氏軍を翻弄し続けた
 ☆義経は、平氏追討後は追わる身となる
 *悲劇的な運命をたどる
 ☆義経を英雄視した多く伝説が生まれた.
                          (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の合戦』







源平の争い2(宇治川・一ノ谷の戦い)
『日本の合戦』記事より画像引用)

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