慶喜

心意気
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慶長出羽合戦&大阪冬の陣

2022年06月21日 | 歴史
🌸慶長出羽合戦

 ☆上杉が最上領を狙った「北の関ヶ原」

安土桃山時代の慶長出羽合戦
 ☆5大老の一人上杉景勝は反家康の立場を取る
 *三成と協力する姿勢をみせていた
 ☆家康は上杉に謀反の疑いありとして上杉討伐に向かう
 *三成が挙兵したため西へ戻る
 ☆上杉討伐には最上義光も立ち上がった
 *直江兼続は最上を倒すべく侵攻を開始した
 *兼続は山形城を落とすべく畑谷城を攻略する
 *長谷堂城に兵を進めたが、堅牢な守りに苦戦を強いられる
 ☆最上側の援軍として伊達政宗が到着して緊張が高まる
 *関ヶ原本戦での東軍勝利の報がもたされ
 *兼続は全軍撤退を決定した.

兼続の計算を狂わせた最上勢の抵抗
 ☆上杉軍は南と北西の2方面から山形盆地へと侵攻
 *北西側から進んだ直江兼続率いる本隊
 *苦戦しながらも畑谷城を陥落させ、長谷堂城を包囲する
 *南から北進した別動隊は上山城を攻め落とせず
 *足止めを食らってしまう
 *兼続本隊も長谷堂城を落とすことができず
 ☆西軍敗戦の報を聞いて撤退
 *兼続は、最上と伊達の連合軍に追撃され大打撃を受けた

長谷堂城の堅固な守り
 ☆最上氏の重要な支城だった長谷堂城
 ☆土造りの城だが土塁や堀がめぐる堅い守りだった
 ☆最上軍、足場の悪い中で夜襲を仕掛け、
上杉軍を大混乱させた

敗軍の将:直江兼続
 ☆文武に優れた上杉景勝の右腕
 *幼少期から上杉景勝に仕えた重臣
 ☆家康が景勝の上洛を求めた手紙に
 *挑戦的な言葉で返事をした直江状
 *家康が上杉征伐を決めた一因といわれる
 ☆文武に優れた将で
 *秀吉の家臣への誘いもあったが
 *主君への義を貫きこれを断っている
 ☆関ヶ原の戦い後は家宰として手腕を発揮して
 *上杉家を支え米沢藩発展の礎を築いた

🌸大阪冬の陣

 ☆大軍を防ぎきった惣構と真田丸


江戸時代の初期の大阪冬の陣
 ☆天下人となった家康は、影響力の強い豊臣家を危険視していた
 ☆秀頼が建立した方広寺の鐘銘に難癖をつけ責任を取るよう求めた家康
 *それをはねのける形で、秀頼は挙兵に踏み切った
 ☆家康は、約20万の軍勢で大坂城を完全に包囲する
 ☆秀頼のもとには、大名や牢人ら約10万が集結し籠城戦で対抗した
 ☆大坂城をなかなか崩ぜず長期戦を予感した家康
 *砲撃で豊臣方を成嚇し恐怖心を煽って和睦を結ぶことに成功した

破られなかった惣構の守り
 ☆大坂城は上町台地の北端に位置し天然の要害
 ☆大坂城は三方に河川を利用した惣構が築かれていた
 ☆冬の陣ではこの惣構をはさむように両軍に対峙した
 ☆幕府軍、台地続きの南側から力攻めをするも
 *惣構を突破することはできなかった

最大の激戦地となった真田丸
 ☆冬の陣で最大の激戦地となったのが真田幸村の真田丸
 ☆敵の力攻めが予想されたため、敵の攻撃を集中させるために
 ☆幸村はあえて惣構の外に真田丸を置いた

将・真田幸村
 ☆幕府軍を退けた「日本一の兵」と評された
 ☆関ヶ原の戦いでは父とともに西軍につく
 ☆上田城の戦いで徳川秀忠を食い止める活躍を見せた
 ☆秀頼挙兵の報を聞き大坂に入城
 *冬の陣では真田丸で指揮し幕府軍を寄せつけず
 *夏の陣では家康本隊に迫る勢いを見せた
                        (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の合戦』








慶長出羽合戦&大阪冬の陣
『日本の合戦』記事より画像引用)

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