🌸島津義弘(島津家を継続させた武将)
☆薩摩・大隅・日向を平定した名武将
☆朝鮮出兵や家中争いなど苦難続き
☆朝鮮出兵や家中争いなど苦難続き
☆島津義弘の「やむなく西軍へ」は作り話(当初から反家康=西軍)
☆島津兵の勇猛さで家康に島津本領の安堵を決定させた
☆島津兵の勇猛さで家康に島津本領の安堵を決定させた
⛳朝鮮出兵では日本一の大遅陣
☆大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉
☆大友宗麟の援軍要請を受けた豊臣秀吉
*20万を超える大軍を擁して九州に進んだ
*島津義弘戦うことをせず、積極的に降伏の手はずを整えた
*義弘は豊臣政権の強大さを見せつけられており秀吉の命令を受けた
☆島津義弘の朝鮮出兵
*国元に中央の動向への対応を懇願しても、義久は応じてくれない
*義弘は間に立って板挟みになった
*義弘は、御家のおんためと前線基地の名護屋に乗り込んだ
*島津勢はやって来ず日本一の大遅陣となってしまった
*自他の面目を失い、無念千万であると書状をしたためている
☆島津は、秀吉の命には逆らえず
*島津勢は一万人ほどで朝鮮半島に上陸し戦果を挙げている
⛳「やむなく西軍へ」は作り話
☆島津領での伊集院氏による庄内の乱
*島津勢は一万人ほどで朝鮮半島に上陸し戦果を挙げている
⛳「やむなく西軍へ」は作り話
☆島津領での伊集院氏による庄内の乱
*島津家の筆頭家老を務めた伊集院忠棟
*軍事にも政治にも卓越した能力を示していた
*早くから豊臣政権への従属を説いていた
☆伊集院は、秀吉の島津攻めに際して
*戦場にあって戦うことせず、積極的に降伏の手はずを整えた
*伊集院の行動が島津家の存続に繋がつた
☆伊集院忠棟を取り立てた秀吉が死亡する
*伊集院氏と島津本家との対立は表面化した
☆伊集院忠棟を取り立てた秀吉が死亡する
*伊集院氏と島津本家との対立は表面化した
*義弘の子で義久の養子忠恒は、忠棟を殺害した
☆伊集院側は強く反発、家督を継いだ忠真は反乱を起こした
*島津家は鎮圧の兵を向けるが、伊集院の兵は精強で戦いは長引く
*島津家は鎮圧の兵を向けるが、伊集院の兵は精強で戦いは長引く
☆関ヶ原の戦いに際して、島津家は十分な兵を手配出来なかった
*義弘は家康からの援軍要請に応え
*義弘は家康からの援軍要請に応え
*1千の軍勢を率いて家康の拠点に馳せ参じたが入城を拒否された
*西軍総勢4万人の中で孤立した言われている義弘
*義久は、中央の豊臣政権とはなるべく距離を置きたい決意した
☆義弘は当初から反家康=西軍に加わっていたと見られている
⛳「島津の退き口」で戦場を離脱
☆「島津の中立」も江戸時代に成立した説
☆義弘は当初から反家康=西軍に加わっていたと見られている
⛳「島津の退き口」で戦場を離脱
☆「島津の中立」も江戸時代に成立した説
☆「島津の退き口」以前の義弘の戦闘行動、よく分かっていない
*西軍の主力が壊滅すると
*西軍の主力が壊滅すると
*島津勢は東軍の陣を突破するようにして戦場を離脱する
*この戦いが「島津の退き口」と呼ばれ、高名は世に轟いた
☆薩摩に戻った義弘は、国境を固めながら徳川との和平交渉にあたった
*家康は九州諸大名に島津攻めの準備をさせたが、攻撃命令を出せなかった
☆関ヶ原に主力を送らなかった島津家にはいまだ本隊が健在である
*長期戦になったら、家康に不満を持つ外様大名の動きが不明である
*長期戦になったら、家康に不満を持つ外様大名の動きが不明である
*家康は態度を軟化させ、島津討伐軍に撤退を命令した
☆家康は島津本領の安堵を決定した
*島津の存続を成し遂げて、義弘は大隅の加治木に隠居した
☆家康は島津本領の安堵を決定した
*島津の存続を成し遂げて、義弘は大隅の加治木に隠居した
*隠居後は若者たち教育に力を注ぎ同地で死去した
(敬称略)
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⛳出典、『THEMIS1月号』
島津義弘(島津家を継続させた武将)
(ネットより画像引用)
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