🌸文永の役
☆臣従することを拒否して大帝国の元と戦う
⛳鎌倉時代の文永の役
☆3代執権・北条泰時の頃、北条氏を中心の執権政治が確立した
⛳鎌倉時代の文永の役
☆3代執権・北条泰時の頃、北条氏を中心の執権政治が確立した
☆国内は落ち着きを取り戻したが
☆モンゴルの皇帝フビライ=ハンの国書が届く
*日本に恭順を促してくる
*幕府はこれを拒否し、その後の使者も無視した
☆激怒したフビライは日本へ侵攻し、博多湾を攻撃
☆激怒したフビライは日本へ侵攻し、博多湾を攻撃
☆時宗は臨戦態勢を整えてこれを迎え撃った
*日本軍は「てつはう」などや集岡戦法に苦しめられる
☆しかし元の大船団は突如姿を消した
*元軍撤退の理由はいまだに謎だが日本はからくも勝利した
⛳御家人以外も戦いに動員する
☆元軍襲来の知らせを受けた幕府
☆元軍襲来の知らせを受けた幕府
☆西国の守護たちに現地に赴いて防衛することを指示した
☆御家人以外の武士階級の動員又非御家人も戦いに参加させた
⛳勝軍の将、北条時宗
☆大国の脅しに屈しなかった8代執権
☆元に対して終始強気に接した
☆一方南宋の僧・無学祖元を招聘した
*忍性の慈善活動を支援するなど
*仏教に深く帰依する一面もあった
🌸弘安の役
☆経験を生かした戦いで元軍を上陸させなかった
⛳鎌倉時代の弘安の役
☆時宗が着々と国内の防備と権力拡大をしている間
*元は南宋を滅ぼし、日本に使者を送り続けた
*時宗は使者を斬り殺し、徹底抗戦の決意を示す
*時宗は使者を斬り殺し、徹底抗戦の決意を示す
☆文永の役から7年後、元は再度日本に出兵
*対馬、壱岐を蹂躙して博多、長門方面まで戦線を延ばした
☆日本軍は防塁上から矢の雨を降らせた
☆日本軍は防塁上から矢の雨を降らせた
*夜襲をかけて元の軍船に火を放ち、元軍の上陸を水際で防ぐ
*元軍はいったん壱岐に退いて、援軍と合流する
☆その夜、大型台風が元軍を直撃
☆元軍の8割が沈没しやむなく元は撤退した
⛳幕府軍の抵抗を崩せなかつた元軍
☆合浦を発した東路軍約4万は、日本に侵攻して博多を攻めた
☆合浦を発した東路軍約4万は、日本に侵攻して博多を攻めた
☆幕府は襲撃に対する防備を固めていた
*元軍は上陸を諦めて壱岐まで撤退する
☆東路軍、江南軍約10万と合流する
☆暴風雨により船団が壊滅的な被害を受け撤退した
⛳博多湾沿岸に築いた防塁
☆元が再び侵攻してくることに備え
☆元が再び侵攻してくることに備え
*幕府は異国警固番役を強化し
*上陸を防ぐための防塁を約20kmにわたり築いた
*長門警固番役も設置する
☆外国への備えが、御家人たちの負担を増やす
*これにより、貧困する御家人たちが急増
☆幕府は徳政令をだすなどしたが効果は薄く
*御家人たちの不満が沸き上がる
⛳敗軍の将、フビライ=ハン
☆ユーラシア大陸の大半を支配下に置いたモンゴル帝国5代皇帝
☆ユーラシア大陸の大半を支配下に置いたモンゴル帝国5代皇帝
☆首都を中国の大都に移し
*国号を元として初代皇帝となった
*高麗を支配下に収めたのち、南宋を減ばした
☆日本へ2度にわたり侵攻
☆日本へ2度にわたり侵攻
*日本以外、ビルマやべトナムにも遠征し、周辺諸国を震感させた
(敬称略)
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⛳出典、『日本の合戦』
蒙古襲来(文永・弘安の役)
(『日本の合戦』記事より画像引用)
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