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八丈島バーチャル旅行1(地形&歴史)

2020年11月26日 | 観光
🌸八丈島概略

 ☆伊豆諸島の火山島で、火山活動度ランクCの活火山
 ☆八丈小島と区別するため、八丈本島又は八丈大島と呼ばれる
 ☆東京都心から南方約300Kmの海上にある
 ☆人口は1万人弱で、明治初期まで流刑地であった
 ☆行政区分は東京都八丈町で、自動車も品川ナンバー
 ☆くさや、明日葉、ハイビスカス、島焼酎が特産品

⛳八丈島地形&地理
 ☆ひょうたん型をした島
 *北西ー南東14Km、北東ー南西約8Km
 *ふたつの火山が接合した島
 *東山(三原山・標高701m)、西山(八丈富士・標高854m)
 ☆面積は山手線の内側とほぼ同じ
 ☆羽田空港から飛行機で片道55分で行ける

富士火山帯に属する火山島
 ☆東山は約10万年前から約4000年前まで活動していた
 *最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない
 ☆西山は数千年前から活動を始めた新しい火山
 *15世紀~17年世紀に数回噴火している
 *1606年の海底噴火によって火山島ができた
 ☆気候は、暖流である黒潮の影響を受ける
 *年平均気温は約18℃で高温多湿
 *年間を通して風が強く、雨が多いの
 ☆常夏のイメージを持たれているが
 *八丈島の緯度は大分県大分市と殆ど同じ
 *常夏とは言い難い環境

⛳八丈島の歴史(古代~明治維新)
 ☆縄文時代に人が住んでいた
 ☆律令制度においては、東海道駿河国に含まれていた
 ☆源為朝(平安時代に伊豆大島へ流罪で渡来)
 *八丈小島で自害した伝説もあり、庶子二郎丸は生き延びた
 *二郎丸は、源頼朝から戦での功績で、八丈島を領地として賜る
 *源為朝の子孫が、約千年暮らし続けている
 ☆宇喜多秀家(八丈島の公式な流人第一号)
 *関ヶ原の戦いで、西軍に属した宇喜多秀家
 *秀家の子孫、加賀藩の援助を受け数家に分かれて存続
 *明治維新後赦免された
 ☆近藤富蔵(最後の流人)
 *北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男
 *殺人を犯して八丈島に遠島、50年島で流人として過ごす
 *明治政府により赦免、彼が流人生活の間に記した『八丈実記』
 ☆江戸時代の飢饉
 *明和年間の大飢饉で、島全体で多くの餓死者が出た
 *中之郷村内では、733人の餓死者が発生、生き残ったのは400人
 *悲劇を伝える「明和飢饉餓死者冥福之碑」が中之郷地区にある

⛳八丈島の歴史(明治維新後)
 ☆吉村昭の『漂流』、野村長平らの漂着者を題材にした小説
 *彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島
 *五か村四千戸が地役人を中心に統治されていた
 ☆安井誠一郎都知事が戦後島内を視察
 *山羊の導入や開墾を伴う入植計画
 *サメ漁などの産業振興を提案
 *島は今に東京の宝島になるとして持ち上げた
 ☆集落間で水争いや集落の境界の揉め事を争う事件も起きた
 ☆戦後の八丈島は観光産業が発達
 *首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かった
 *八丈島は庶民の間で「日本のハワイ」と呼ばれていた
 *ハワイ旅行が安価になった為、観光客が減少した
 *島には廃墟化した当時の巨大ホテルが取り壊されずに残っている
 ☆現在でも、観光が八丈島にとり重要産業
 *かつては映画館やゲームセンターなどの娯楽施設も存在した
 *現在、パチンコ店、カラオケ店、ゴルフ場等が細々と営業している
 ☆現代に至るまで、大手資本による店舗やサービスが一切無い
 *コンビニもファストフードもない
 *夜間営業を行わない個人営業の店で買い物をするしかない
 *深夜には買い物自体が出来ない状況
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、『WIKIPEDIA』




八丈島バーチャル旅行1(地形&歴史)
『WIKIPEDIA』より画像引用)

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