第二次世界大戦中に台湾から8000余名の少年たちが日本に派遣され、海軍工員として戦闘機の生産に従事した。彼らは日本でどのような生活を送り、戦争をどう捉えたのか、そして戦後、異なる社会や体制下でいかに生き抜いていったのか。「緑の海平線」は高齢に達した元少年工の記憶を辿りながら、公的な文書の残されることのなかった東アジアの歴史を記録したドキュメンタリーである。
第二次世界大戦中、労働力不足を補うため、日本は植民地であった台湾の小中学校で海軍工員の募集を行った。1943年から1944年にかけて、8000余名の台湾の少年たちが神奈川県大和市にあった海軍空C廠(のちの高座海軍工廠)に派遣された。その後、日本各地の軍需工場で戦闘機の生産に従事するが、日本の敗戦でその任務は解除され、翌年、多くの少年工たちは台湾に戻った。しかし、一部の少年工にとってはこれが新たな苦難の始まりでもあった。
台湾の少年たちはどのような理由で少年工に応募し、日本にやってきたのか。彼らの個人的な事情を当時の社会的な背景と共に考察していく。また台湾の少年たちが日本で戦闘機の生産に関わったのはわずか1年から2年であったが、この短い日本での経験が彼らの一生を大きく左右することになった。「緑の海平線」は、台湾から神奈川県の高座海軍工廠に派遣された少年たちの異なった人生の歩みと彼らの多様な視点を通していかに政治に一般の人々が翻弄されたということ、そして東アジアの異なった社会や体制下で何を考え、どう生き、どのような喜びと悲しみを持ちえたのか、を記録したドキュメンタリーである。
緑の海平線の公式サイト(日本語)
ほかの人の映画を観た後関連感想
2006年度日本大学人文科学研究所共同研究「近代東アジアにおける文学・演劇・映画の交差をめぐって」
2003年台湾高座会里帰り(神奈川県座間市)歓迎大会サイト
高座会在留60周年歓迎大会
台湾高座会歓迎大会趣意書
10年ぶりの里帰りと60年ぶりの卒業式 (2003年)
先の大戦末期、国は優秀な労働力を台湾に求め、小学校六年か高等科を卒業した者に、働きながら勉強すれば、旧制中学の卒業資格を与えると約束しました。多くの台湾少年が競って応募し、厳しい採用試験を突破して、当時の内地へ渡りました。配属先は現在の神奈川県座間市にあった高座海軍工廠、宿舎が今の大和市上草柳にありました。
仕事はB29を迎撃する新鋭戦闘機「雷電」の製造でした。彼らは懸命に働き高い評価を得ましたが、終戦となり志半ばで台湾へ帰りました。彼らの同窓組織である台湾高座会が、高座の地を「第二の故郷」と呼んで里帰りしたのは、平成五年六月九日で、実に五十年ぶりでした。
当日は皇太子と雅子妃のご成婚の日でしたが、里帰りした元台湾少年工1300名、歓迎する日本人1800名、双方で3100名を超える大集会となり、日台交流の機運は大いに盛り上がりました。
あの日から早いもので10年が経過しました。台湾高座会は、今年また第二の里帰りを計画しています。彼らの宿願であった卒業証書問題も曲りなりに決着し、60年ぶりに晴れて卒業証書授与式が行わる予定です。
深まった日台の相互理解
10年間に、この高座を機縁とする日台の交流は飛躍的に拡大しました。先の里帰り大会で台湾高座会から寄贈された台湾亭は、銃撃で六人の少年工が貴い生命を失った大和市の引地川のほとりに建設され、市民憩いの場として愛されています。日本側の台湾に対する理解も飛躍的に深まりました。交流する元台湾少年工の人々に限れば、自分たち以上に日本人的であり、それも古き良き時代の日本人的であることに驚くのです。台湾高座会のメンバーの告別式に出席すれば、それがよくわかります。棺は錨のマークの会旗で覆われ、葬送の曲は多くの場合、「海ゆかば」です。しかし考えてみると、理解できないことではありません。彼らは日本人として生まれ、日本人として教育を受け、しかも成績優秀でした。そして同世代の日本人の中では、飛行機の製造整備という仕事の性格上、最も危険な場所で、最も勇敢に戦った人たちなのです。そしてあの厳しかった時代を、七十数年の人生の中でむしろ肯定的にとらえているのです。
台湾人に教えられるわが国戦後教育の歪み
私たちは、台湾で意外な発見をすることがあります。昨秋、彰化区会のS総幹事から聞いた話です。「現役時代に、よく大陸出身の中国人と論争しました。中国人はよく南京での日本軍の残虐性を主張します。そうした時、私は必ず反論します。国同士の戦争なら殺し合いは当り前だ。問題は戦争が終わってから国内政治の路線上の争いで、如何に多くの人が死んでいったかである。同じ民族の政府によって、民衆が政治的に虐殺されたり、誤った政策による飢餓で命を落したりする。その数の方が戦争で死ぬ数よりよっぽど多い。政治はそれに対して何の責任も取らない。民衆もそれを問題にしない。これを言うと、たいていの中国人は黙ってしまいます」。
Sさんは更に続けた。「日本政府は、非常におかしいですね。中国や北朝鮮に過去のことを言われるとすぐ謝る。確かに日本は朝鮮を36年間植民地にしました。しかしその36年間に飢えで人が死んだでしょうか。
朝鮮の政府は、声高に日本の植民地政策を批判しますが、自らの政治体制下で死んだ人間のことを考えることがあるのでしょうか。政治的虐殺と飢餓での死者は、何百万とも言われています。自国民を何百萬も殺している政権に、一人の餓死者も出さなかった日本が、なぜ謝るのですか。謝った上に、国民の税金から巨額な賠償を、なぜ支払うのですか。日本人が、どうしても謝罪るのなら、金正日が朝鮮人民に土下座して謝った後からでも遅くないのです」と。目を洗われた思いがしました。そして、戦後の歪んだ歴史教育の影響を、陰に陽に受けている自分を見出していました。
(以下省略 歓迎大会のサイト ご参照を)高座会在留60周年歓迎大会サイト
神奈川県座間市にある台湾亭の写真 出所
(建設者)
終戦後に帰国した元少年工でつくる「台湾高座会」(当時約3千人)と日本に残った元少年工の「在日高座会」(当時約40人)
李登輝前総統は2002年10月6日、台湾の高座会同窓会に出席
李登輝さんと高座会
関連著作
台湾少年工と第二の故郷
―高座海軍工廠に結ばれた絆は今も― 野口 毅 編著(元高座海軍工廠海軍士官)
四六並製 229頁
本体:1500円 (税別)
平成11年7月8日発行台湾少年工と第二の故郷
第二次世界大戦中、労働力不足を補うため、日本は植民地であった台湾の小中学校で海軍工員の募集を行った。1943年から1944年にかけて、8000余名の台湾の少年たちが神奈川県大和市にあった海軍空C廠(のちの高座海軍工廠)に派遣された。その後、日本各地の軍需工場で戦闘機の生産に従事するが、日本の敗戦でその任務は解除され、翌年、多くの少年工たちは台湾に戻った。しかし、一部の少年工にとってはこれが新たな苦難の始まりでもあった。
台湾の少年たちはどのような理由で少年工に応募し、日本にやってきたのか。彼らの個人的な事情を当時の社会的な背景と共に考察していく。また台湾の少年たちが日本で戦闘機の生産に関わったのはわずか1年から2年であったが、この短い日本での経験が彼らの一生を大きく左右することになった。「緑の海平線」は、台湾から神奈川県の高座海軍工廠に派遣された少年たちの異なった人生の歩みと彼らの多様な視点を通していかに政治に一般の人々が翻弄されたということ、そして東アジアの異なった社会や体制下で何を考え、どう生き、どのような喜びと悲しみを持ちえたのか、を記録したドキュメンタリーである。
緑の海平線の公式サイト(日本語)
ほかの人の映画を観た後関連感想
2006年度日本大学人文科学研究所共同研究「近代東アジアにおける文学・演劇・映画の交差をめぐって」
2003年台湾高座会里帰り(神奈川県座間市)歓迎大会サイト
高座会在留60周年歓迎大会
台湾高座会歓迎大会趣意書
10年ぶりの里帰りと60年ぶりの卒業式 (2003年)
先の大戦末期、国は優秀な労働力を台湾に求め、小学校六年か高等科を卒業した者に、働きながら勉強すれば、旧制中学の卒業資格を与えると約束しました。多くの台湾少年が競って応募し、厳しい採用試験を突破して、当時の内地へ渡りました。配属先は現在の神奈川県座間市にあった高座海軍工廠、宿舎が今の大和市上草柳にありました。
仕事はB29を迎撃する新鋭戦闘機「雷電」の製造でした。彼らは懸命に働き高い評価を得ましたが、終戦となり志半ばで台湾へ帰りました。彼らの同窓組織である台湾高座会が、高座の地を「第二の故郷」と呼んで里帰りしたのは、平成五年六月九日で、実に五十年ぶりでした。
当日は皇太子と雅子妃のご成婚の日でしたが、里帰りした元台湾少年工1300名、歓迎する日本人1800名、双方で3100名を超える大集会となり、日台交流の機運は大いに盛り上がりました。
あの日から早いもので10年が経過しました。台湾高座会は、今年また第二の里帰りを計画しています。彼らの宿願であった卒業証書問題も曲りなりに決着し、60年ぶりに晴れて卒業証書授与式が行わる予定です。
深まった日台の相互理解
10年間に、この高座を機縁とする日台の交流は飛躍的に拡大しました。先の里帰り大会で台湾高座会から寄贈された台湾亭は、銃撃で六人の少年工が貴い生命を失った大和市の引地川のほとりに建設され、市民憩いの場として愛されています。日本側の台湾に対する理解も飛躍的に深まりました。交流する元台湾少年工の人々に限れば、自分たち以上に日本人的であり、それも古き良き時代の日本人的であることに驚くのです。台湾高座会のメンバーの告別式に出席すれば、それがよくわかります。棺は錨のマークの会旗で覆われ、葬送の曲は多くの場合、「海ゆかば」です。しかし考えてみると、理解できないことではありません。彼らは日本人として生まれ、日本人として教育を受け、しかも成績優秀でした。そして同世代の日本人の中では、飛行機の製造整備という仕事の性格上、最も危険な場所で、最も勇敢に戦った人たちなのです。そしてあの厳しかった時代を、七十数年の人生の中でむしろ肯定的にとらえているのです。
台湾人に教えられるわが国戦後教育の歪み
私たちは、台湾で意外な発見をすることがあります。昨秋、彰化区会のS総幹事から聞いた話です。「現役時代に、よく大陸出身の中国人と論争しました。中国人はよく南京での日本軍の残虐性を主張します。そうした時、私は必ず反論します。国同士の戦争なら殺し合いは当り前だ。問題は戦争が終わってから国内政治の路線上の争いで、如何に多くの人が死んでいったかである。同じ民族の政府によって、民衆が政治的に虐殺されたり、誤った政策による飢餓で命を落したりする。その数の方が戦争で死ぬ数よりよっぽど多い。政治はそれに対して何の責任も取らない。民衆もそれを問題にしない。これを言うと、たいていの中国人は黙ってしまいます」。
Sさんは更に続けた。「日本政府は、非常におかしいですね。中国や北朝鮮に過去のことを言われるとすぐ謝る。確かに日本は朝鮮を36年間植民地にしました。しかしその36年間に飢えで人が死んだでしょうか。
朝鮮の政府は、声高に日本の植民地政策を批判しますが、自らの政治体制下で死んだ人間のことを考えることがあるのでしょうか。政治的虐殺と飢餓での死者は、何百万とも言われています。自国民を何百萬も殺している政権に、一人の餓死者も出さなかった日本が、なぜ謝るのですか。謝った上に、国民の税金から巨額な賠償を、なぜ支払うのですか。日本人が、どうしても謝罪るのなら、金正日が朝鮮人民に土下座して謝った後からでも遅くないのです」と。目を洗われた思いがしました。そして、戦後の歪んだ歴史教育の影響を、陰に陽に受けている自分を見出していました。
(以下省略 歓迎大会のサイト ご参照を)高座会在留60周年歓迎大会サイト
神奈川県座間市にある台湾亭の写真 出所
(建設者)
終戦後に帰国した元少年工でつくる「台湾高座会」(当時約3千人)と日本に残った元少年工の「在日高座会」(当時約40人)
李登輝前総統は2002年10月6日、台湾の高座会同窓会に出席
李登輝さんと高座会
関連著作
台湾少年工と第二の故郷
―高座海軍工廠に結ばれた絆は今も― 野口 毅 編著(元高座海軍工廠海軍士官)
四六並製 229頁
本体:1500円 (税別)
平成11年7月8日発行台湾少年工と第二の故郷
実は最近まで第二次世界大戦の最中に、かくも多数の台湾人の少年が軍需工場に来て働いていた、という事実を知りませんでした。
「無知はある意味で犯罪に等しい」とどなたかがおっしゃいましたが、その意味では私を含めて多くの日本人が“犯罪者”かも知れません。つまり、あまりにも近隣諸国の事(現代も歴史も)を知らな過ぎるということです。
さて、本編は過去の大日本帝国の“犯罪”を往時の台湾少年工の目を通して暴く、と言ったものとは無縁で、過去の歴史的事実を、そして当事者たちの回顧、証言を交えながら「淡々」と綴った「映像の叙事詩」のような趣があります。
当時の日本政府、日本人をけっして詰ることもなく、自らの辿った過酷な体験を語る台湾のご老人たちを見ながら、かって30年ほど前に始めて台湾の土を踏み、いろいろな台湾の人々に出会った頃を思い起こしました。
この作品はまだまだ多くの台湾人、日本人に観てもらいたいですね。