仕事、人間関係、家庭問題、諸々、なんか行き詰っていると感じた時は、無言の対話ができるアートや建築物が見たくなる。今回は、webでさくっと見学予約ができた「紀尾井清堂」を訪問した。
用途未定の建物と言われる「紀尾井清堂」は、『思ったように造ってください、機能はそれに合わせて後から考えますから』と言われ、内藤廣氏という建築家が設計を手掛けたことで知られる。
コンクリートの打ちっぱなしの建物にガラスがめぐらされラッピングしているような外観が目を引く。入口に向かうと半地階のガレージのようなピロティに東北大震災時の「奇跡の一本松展」としてその松の木の根が展示されていた。鎮魂を祈る大きな自然の妙が静かにたたずみ、空間に静寂を求めていた。
上階に行くと、吹き抜けのホールにトップライトから自然の光が射し込んでいた。さらに上階へ踊り場がない階段と回廊だけが続いて行く。上質で綺麗な無垢材の美しい直線ばかりの空間に丸いダウンライトの灯が映る。
規則的で美しく且つ気品ある佇まいを感じる。
美しくまさしくこれはアートと思い感動すると同時に、艶々のみたらし団子が私の脳裏には浮かんできた。決して、空腹だったわけではないのだが、この空間の真っすぐに伸びる直線が竹串を、丸く映るライトが、団子を連想させた。上品でつやつやに光るみたらし団子、今にもいい香りがしてきそうだ。しかし、はたと見上げる天井のトップライト越しには高層ビルが見え、みたらし団子を手に入れるための労働という現実が思い出された。
母は若くして私を産んだため、当時、近所からは子供が子供を育てていると言われていたようで、何かと近所の高齢者が子育てに口をはさんできたとのことだった。その影響で、クッキーやキャンディー、チョコレートといった洋菓子は虫歯のもとになるからダメとの助言を受け、我が家のおやつは原則、果物だった。歯が抜け変わる前までは、お菓子といえば、近所のおばあちゃんらからもらう、煎餅、芋けんぴ、最中、羊羹、あんこ玉、きなこ棒、甘納豆や葛餅とかと緑茶だった。
そんなある日、近所に生菓子を扱う店が開店し、そこの「みたらし団子」が、許されるおやつの中で「すあま」と一番を争う私には、特別なおやつとなった。
しかし、客人が来るとかでなければ、そう簡単に買ってもらえるものではなく、手に入れる為には、お手伝いという労働が必要だった。切らした味噌や醤油、電球を買いに行くとかお風呂場掃除、小鳥のジュウシマツのカゴのフン掃除と餌や水やりとかだったように思う。正直、どれも好きなお手伝いではなかったが、何かを克服した後のみたらし団子は最高で、つやつやした輝きともちもち、しこしこした食感とトロンとした甘醤油餡は最高だった。
こんな無言の対話をしてしまった「紀尾井清堂」の帰り道、勿論、私は、みたらし団子を買って帰路についた。
久しぶりに食べた「みたらし団子」は、ぎゅうぎゅうに締め付けられていたような私の心をほろほろと少しずつ少しずつ解いて、古き良き時代があったことを思い出させてくれた。
時代は変わる、人も変わる、状況も変わる、辛い時も哀しい時も楽しい時も幸せな時もひたすら時は廻る。
辛ければ泣けば良く、哀しい時は嘆けばいい。楽しい時もいずれはやってきて、幸せを感じるのだろう。その様に時は巡っていき、この美しい建物は静かに時を重ねていくのだろう。そんなふうに撮ってきた写真を眺めて、また無言の対話をしてみた。
こんな時間に支えられ私の今日も過ぎていき、きっといつか古き良き時代があったとこの日のことを思い出せらと良いと思う。
君とは同じフレームを持つ私だが、人生の歩み方は同じ様にはしない。
君は、自分と同じ想いを私にもたらすことで、自分の淋しさ、辛さ、悔しさを共有し、自分の努力、強さを理解してもらいたかったのだと悟りました。守ってくれていた親の老いを改めて痛感し、お別れもそう遠くはないと感じ始めて、淋しさと哀しみに追いつかれそうになっていたのでしょう。その淋しさから、遠回しに色々な言葉を私にまき散らかし、上手く距離を調整し、付かず離れずを保持していこうとしていたことは、感じていました。
でも、私は君のようにならない、負けない。
自分のことを繊細な人間と言う君は、繊細というより、いつまでもウジウジ考えてしまう。繊細な人というのは、自分のみならず相手に対しても繊細なので、他人に対して見下すような態度はとらない。
君が死別したパートナーから離れることが出来ない様に、私は今後、人生において君を忘れる事は出来ないのかもしれない。
それでも、独りで暮らし、独りで旅して、相談する相手も無く、愚痴をこぼす相手もなく独りで乗り切り、独りで老いていく人生を私は、選択しない。
君が自分と同じような人生を私に残そうとしたその思いを私は必ず断ち切る。
これまでの人生で育った内面、実力、知識をもって、自分の為の人生を始める。
必ず執着を捨て、欲しい人生を手にする。
ステージをあげた来世で、また会えたら沢山話をしよう。
私は、18歳の冬に初めて恋をした。
アルバイト先の先輩に一目惚れだった。告白することはできず、ただ毎日、勝手に彼を想っては胸が苦しく、落ち着かず、もう人生でこんなに人を恋しく思う事は2度とないだろうと思い、結局2年ほどの片想いの末、彼に彼女ができたと知って私の恋は消えた。
そしてそれ以降、本当に30年以上、他人(ひと)に対して愛するという感情が湧いてくることはなかった。
私を好んでくれた人の中から、良いと思う方を選ぶという感じでお付き合いが始まり、一緒にいるうちに情が湧くというような感じであった。結婚時も、幾度かお断りしたが、押し切られた様な形で結婚してしまったというのが正直なところだった。
また、離婚後に8年間のお付き合いをした方ともやはり出会った当初から愛というような感情が持てず、それを素直に御伝えしたところ、「きっと一緒にいれば愛が芽生える」という彼の言葉に促されて交際を重ねたが、彼と再婚したいと思うことはなく、身内のような同士のような想いを築けはしたが、それ以上に想いが育つことは無かった。そして、彼が自分のことを「愛している」と言ってくれる別の女性と人生をやり直したいとなり、お別れした。
そのような訳で、他人(ひと)を愛する事が出来ない私は、もはや一種の病気を抱えているのかもしれないと思い始めていた頃、ある彼に出会った。
初めてその彼と会話をした時、彼の話す姿を眺めていると、ふと穏やかな気持ちになり、
「私は、この人と過去世で出会っている」と自然に思えて、懐かしい何とも言えない不思議な気持ちに包まれた。
次に、なぜか彼がどんなご両親に育てられたのかが気になり、彼のご両親の質問ばかりをしたことを覚えている。
こんなスタートから彼と私は、瞬く間に付き合い始め、彼は20年ほど前に事故で奥さんを亡くしたとの事で、2人でこれからの人生を共に歩けたら幸せだと言った。
彼に出会ってからの私は、常に彼の事を考えるようになり、今後の人生を彼と共に寄り添って生きていきたいと自然に考える様になった。待ち合わせでも彼の姿が小さく見えただけで胸が高鳴ったし、手を繋ぐだけでとても熱い気持ちを感じた。娘にも直ぐに紹介し、娘も「あんなに優しく笑う人がいるんだね」と言い、私の交際を喜んでくれた。
しかし、お付き合いが進むと、全く理解しがたい事にぶち当たることがどんどん増えていった。
彼の発言には一貫性がなく、しばしば矛盾する。共に生きていきたい、人生のラストダンスを始めよう、ベターハーフとしてと、言うものの付き合いを発展させる事はしない。また時には瞬間的に別人のような態度を見せる事があり、「え??」と疑うような言葉をわざと私に聞こえるような声でつぶやく事が頻繁だった。
彼は仕事柄、三段論法で結果を導き出すようなことが多く、記憶することもたいへん大事であるはずなのに、矛盾した事を平気で言う。言った事を覚えていないのか?忘れたふりをして、意図して以前話したことと違うことを言っているのか?彼の本心は全く掴めなかった。
例えば、彼の意向で二人で暮らす為の物件を探しに出かけた翌週には、そんなことまるでなかったように「二人で暮らすなんて、今は考えていない」と、言ってくる。そしてまた、しばらくすると「長年の一人暮らしは、正直、淋しかったし、できるならば犬も飼いたかったのに、それができないでいる。だから、早く一緒に暮らそう」と言う。でもまた、その数日後には、「今まで一人で暮らしてきて淋しいなんて思ったことなんてない。逆に気儘でやりたい事ができて、欲しいものを手に入れることが出来て、今のままで十分幸せだ」と、あえて言ったりする。
またどうして?と、思うくらいに怒るような態度をとられることもあった。
彼は、私の家にはやって来るものの彼の家に私を招いてくれることはない。自分の部屋の写真だけを常にメールと共に送ってくる。
キッチン、リビング、トイレ、玄関、バルコニー、仕事部屋の写真を、更には部屋の間取り図も見せたりする。
でも、部屋に呼んでくれることはなく、熱で寝込んでいると連絡が来た時も、「何か買って行こうか」と提案しても、不要だと断られた。
彼の部屋に招かれないそのことについて私が話題にすれば、彼は肩をいからせて、胸を張り出し、威嚇するような見たことないような怖い顔つきで
「完璧な部屋をまだ作れていないからそんな状態の部屋に君を招くのは絶対に嫌だ。親や兄弟や男友達が来るのは今更だからどうでもいいのだけど、君だけは、家に入れるなんて絶対に嫌だ。」と怒った調子で言い、似た様な事が数回はあった。
他にも料理も家事も得意だという彼は、仕事が大抵リモートなので、毎日、オフィスに出勤をする勤務形態の私に「一緒に暮らしたら、毎日、お弁当を作ってあげたい」と言ってくれるのだが、少しすると、聞こえるほどの大きな声で、独り言のように「でも、毎日、お金は払ってもらわないとね。1000円かな、1500円かな」と、独り言の様な言い回しで呟く。これについても似たようなことが常にあり、付き合って半年もすると、会うたびにだんだんと疲れるというか、エネルギーを奪われるような感じを受けるようになった。周りからも、凄い疲れているように見えると言われることも増えていった。
そして付き合い始めて1年以上経った頃だろうか、彼と会った帰りのある日、なぜか急に自殺したい気持ちに襲われた。
その頃の私に死にたいと思うほどの理由は特になかった。最近疲れ気味という感じがあっただけなのに、なぜか、娘も社会人でそれなりの年齢になったし、私を以前ほど必要としないだろうし、もう、私は今まで十分頑張ってきたのだから、一層、死んで楽になるのがいいのでは?と浮かぶのだ。
その一方で、私は身内に自死した者があったため、その時の哀しみや残された者の辛さを知っており、自死に対しては必要以上に嫌悪感があり、絶対の否定論者である。だから、この私がそんな発想をするなんておかしいと冷静に思えもした。
その時、駅のホームに立つ私の中には、確実に、そのおかしいだろうと冷静に強く疑問に思う私と、もう、楽になってもいいよねと言う、別人格の私が、はっきりと混在していた。列車が来るというアナウンスがあった時に、急に娘の顔が大きく浮かんできて、「ママ、ダメ!今を生きて」という娘の声が聞こえ、楽になってもいいよねと問いかけていた私が消えた。本当に今まで体験したことない不思議な一瞬だったが、それなりの時間があったように感じられたほどでもあった。
そしてその直後、なぜだか彼の死別した奥さんのことが思い浮かび、彼女は自殺だったのかと悟った。うつ病で自殺したような感じが伝わって来た。
この出来事について、彼に伝えてもスルーされ、相変わらず、私が理解できない彼の様子は変わることは無く、そのうち彼からは、オブジェなのか?人なのか?わからないモノが白い布に覆われて、それに手足のない黒い塊の人のようなものが蛇の様に絡まっている映像が浮かんでくるようになった。
そして遂に、新年を迎えた正月の3日に、また矛盾したことをメールで送信してきた彼に対し、私は自身が限界であること、これ以上のお付き合いは無理なのではないかといった主旨のメールを返し、奥さんの死因についても言及した。彼からは、メールで病気を苦にして奥さんが自殺で亡くなった事を聞かされ、電話で彼女から解放された自分になって会いに行くから、月末に会って話したいと言われて承諾したが、約束は実現しなかった。
彼が言うには、約束の前々日に記憶障害と酷い動悸が生じて病院で検査を受け、睡眠導入剤を処方され眠っていたとのことで、結果的にすっぽかされたのだ。
しかし、もう、私は彼が話してくれた奥さんの死因に関する話も病院の話にもいくつか疑問に思う節があり、話を信じる信じないというよりも、もう考えたくない気持ちになっていた。
もう彼から強く伝わってくるのは、彼は恐らく憑依されていて、本人もそれを受け入れていると言う事。奥さんは彼への愛と怒りを持ったまま亡くなってしまっているという事だ。
私は、人生2度目の恋と呼べる日々にピリオドを打った。
大人になったつもりでいた私ではあったが、これについては、自分でも思う以上の心の深手を負ってしまって、半年以上経過するも正直、未だに立ち直れてはいない。
恐らく私は、もう他人(ひと)を愛さないだろう。
恐らく私は、そんなことを知る為にこの世に生まれてきたのではない気がしている。
・・・・・と、公言しておきながら、来年位に笑顔で
どなたかと縁あって「再婚しましたぁ~」
なんて言えたら、
『お前!言っている事とやっていることが違うじゃない?』と、周りに言われても、
この痛手の意味があったと云う事にできるのかもしれない。笑笑