バッサリ斬り棄て、進撃のマダム!へ

大人になり過ぎて気付くことがある。老いを恐れず、今迄積み上げて来た自分から更に素敵マダムを目指すためのエクスポート。

夏空

2022-08-04 21:38:00 | 日記
空梅雨が明けた宣言後にぐずつく天気が続いていたが、じっとりとしたまぶしい夏が戻ってきた。
今年はまだセミの鳴く声は聞いてはいない。日曜日のぎらつく道をとぼとぼと近所の小学校まで参院選挙の投票へ向かう。
 
大人になるとこんな狭かったか?と感じる校庭の上には青い空とふわわわ〜~と白い雲が広がっていた。ふと、小学校4年生だった梅雨入り前の頃を思い出した。理由は定かでなかったが、あの時の私は、家でも学校でもなんか淋しくて面白くなくて頑張れなくて、昼休みも友人と遊ぶ気になれず、唯ひとりでフラフラしていた。
そんな時、昼休みで校庭には子供が溢れているのに誰も使っていない2機のシーソーに目が止まり、呼ばれるように片側のシーソーの上に寝転んだ。すっきりした青い空に雲が浮かび、陽はまだ眩しいというほどでもなく、ぽかぽかしてとても気持ちが良い。雲は眺めているとだんだんと動物や人に見えてきて、ゆっくり少しずつ形を変えていく様から色々な物語が浮かんだ。





小さなまんまるの子供の魚が、怪物みたいな怖そうな海の怪物に追われサンゴ礁の中に逃げ込もうとしている。




と、この辺りで一番の大きさを誇るジンベイザメのお爺さんがやってきてお腹の下へをかくまってくれたよ・・
良かった。と言うように。
もう空を見るのが楽しくて楽しくて、それから毎日、昼休みにはシーソーへ真っ先に向かい、寝そべっては雲を眺めて過ごした。3日位すると隣のシーソーに同じクラスの子が私を真似て寝そべり、自然に二人で一緒に雲から物語を創るとか、雲の形から思い浮かぶお互いの家庭でのこと学校でのことの矛盾や変だと思う事を語り続けたるようになった。それがなんだか、のんびりであるものの充実した時間になり、毎日、昼休みが待ち遠しかったが、季節は梅雨入りしてそんな過ごし方は当然できなぬなり、梅雨が明けた頃にすっかり、そんな過ごし方の事は忘れてしまったように思う。
しかし、思い出すのは私にとって、ひとつの変わり目になった大切な時間だったという記憶。
確か、思い出すのは、自分では最大限の努力をしたつもりだったが学年末の成績がそれほどでもなく、母親に
「これが貴女が努力した結果で貴女の限界と云うなら、貴女は所詮、それだけの女よ。平均的な女ってことよね。いいんじゃないそれで。」
と言われた事。その言葉が衝撃的だったのと、やたら悔しかったのとそこからの脱し方が分からなかった事。
子供心に 母の言う事は正しい と思った事。
実に我が母らしいが。
ただ当時は、悔しくてもその言葉の乗り越え方が分からず、このまま平均的な女に育つのが嫌だ!という思いだけがあったように思う。
そんな時に、雲を眺める時間を持てて、同じクラスの友人と思いつくままを素直に語り合えるようなり、夏休み前にはその友人から『塾』『夏期講習』という初めて聞く言葉を知り、母の言葉を乗り越えるきっかけをつかんだ。
 
しかし、大人になった今の私は、結婚にしくじり×が付き、平均的な女に達していない訳で、
当時9歳の私は何をムキになっていたのかしらね?
でも、それが・・・・・子供 って者でムキになれ事ははむしろ良いことだと、大人になり過ぎた年齢になると思うものである。





七夕の日

2022-08-04 21:11:00 | 日記
コロナパンデミック以降、街中から七夕飾りが消えてしまったと感じて歩いていると、急に子供の頃の七夕のある出来事を思い出した。
 
7つ離れた弟が生まれると急に母親業を頑張り始めた母が、1.8m程の笹を買ってきて、弟と七夕飾りを手作りしはじめた。私や妹にも短冊に願いを書くようにと言う。

20歳で私の妊娠発覚からできちゃった婚をし、嫁いだ先には住み込み従業員が10名弱も居る自営業。毎朝毎晩、彼らの食事用意と家事、育児で何がなんだか分からない儘に過ぎて来たのだろう母は、30歳を過ぎて人生の方向を母親業へ向ける事で幸福模索をスタートした頃だった。
若い頃に苦労して乗り越えてそれになりなったという美談が世間には良く流れはするがそうでない人もいる訳で、誰もが苦労した後に成功や上手くやれるようになる訳でないのだと、母を見て感じていた。

当時13歳くらいの私は、毎日が可笑しく腹立たしく、何もかもが驚きと好奇心とで、ちょっとしたことさえ事件という程のおおごとになる気分に常に心が躍り、ざわつく365日フェスティバルな毎日を送る年頃だった。
結局は、単にラッキーでありたいというだけの毎日で、当時、部活と食べる事が楽しみだけの心の成長が遅れ気味だったと思う。
そんな私が夕食前の夕方に書く短冊となれば、
「いつでも美味しい物が食べられますように」  
だった。
しかし後日、母からえらい勢いで叱れることになった。「お前は戦時中に生きているのか? 私の料理がまずいと思われる」と言う。
七夕飾りの笹の前で母溺愛の弟の写真を撮った際、その中でも一番可愛いらしく撮影できたと母一番のお気に入り写真の背景にくっきりと私の短冊、すなわち「いつでも美味しい物が食べられますように」が見事に写りこんでいたからだった。
折角の可愛い弟の写真を他人に見せられない、父の実家や兄弟らに近況写真を送ることが出来ないと、その後、夏が来る度、数年に渡り、母から嫌味を聞かされ続ける羽目になった。
 
また、母子家庭である我が家にも短冊の想い出がある。
彼女が高校生の頃、進学に備えそれなりにお金が必要になり、正直、私はとても厳しい時期を迎えていた。
早く給与を上げて貰える様に=社内営業も疎かにできない
and
目先の金が必要=バイトしないとならない 
ということになっていた。
その為、会社が休みの土日と平日の仕事後の夜にアルバイトを開始。当然、娘と過ごす時間は削られることになったが、娘も理解できる年齢だろうと勝手に納得していた。
ある日、娘の留守中に彼女の部屋の掃除の為に入ると、出窓に七夕の🎋笹飾りがあった。
「ママ大好き!いつまでもいつまでもママと楽しく暮らせますように」と短冊に書かれていた。
10代のキャピキャピする頃の女の子なのに、こんな短冊あり?と順調に並べ続けていたドミノがあと少しでと言う完成前にカタカタと倒れていくような気持になった。娘の幸せのために、今ここが踏ん張り時と一人頑張っていたつもりが結局、この苦難を娘に半分担いでもらっている訳で、それを忘れ一人頑張っていると思い上がっていた私。
私よ!「もう~~てめぇ、ぶっ殺しだ!」である。

一年に一度の逢瀬が叶うロマンティックな日であると言われる七夕。
大人になったのに、ロマンスはおあずけで、私には猛省の日。
ロマンスなんて、もう来ないんだろう。
ロマンスなんて、まぼろし〜〜〜って事に気づいている大人の夏…なのである。