この本は、確か朝日新聞の書評を読んで予約した。以下がそれらのサイト。
若手論客が「エビデンス」に基づいて高齢者の切り捨て政策を主張しては炎上するといった風景は、いつしか見慣れたものとなった。
著者の村上も、学生から「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」などと問われるという。
評者も医師である以上、エビデンスの大切さを理解してはいる。しかし、ゆきすぎたエビデンス主義には問題もある。
大学一、二年生に向けた大人数の授業では、私が医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを題材として用いることが多い。そうしたとき、学生から次のような質問を受けることがある。
「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」
この本の目次は以下の通り。
『客観性の落とし穴』目次
はじめに
第1章 客観性が真理となった時代
第2章 社会と心の客観化
第3章 数字が支配する世界
第4章 社会の役に立つことを強制される
第5章 経験を言葉にする
第6章 偶然とリズム――経験の時間について
第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学
第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景
あとがき
上の本を写した写真からわかるように、いっぱいポストイットを貼った所がある。これは、共感したところなのだが、いつものようにキーワードとしてまとめるのが難しかった。それぞれの内容が関連していることあるいは、繰り返し述べられていることが多いように思った。だから、絞ることが難しくて、結果的にいっぱいポストイットを貼ることになった。
だから、一部を紹介するか、あるいはまとめられそうなことはなるべくまとめて以下に示したい。
ー数値に過大な価値を見出していくと社会はどうなっていくだろうか。
ー患者の「痛い」という訴えが、検査データを見て客観を装う医療者の判断によって、無視される。
ー「科学の客観的価値とは何か」と問うとき、その意味は「科学はものごとの本当の性質を教えてくれるか」ということではない。「科学はものごとの本当の関連を教えてくれるか」ということを意味する。
ーたとえば「怒り」は脳画像のような計測可能な感情として問題になるのであって、怒りを引き起こしたあなたと私のあいだの人格的交流は問題にされない。
ー以前、同僚のアイーダに「フィンランドに、いわゆるいい学校ってあるんですか?」と質問したら、「家から一番近い学校」と言われた。
ー数値至上主義は偏差値に限った話ではない。社会に出たらあらゆる活動が数値で測られる。
ー子どものためと見せかけて、大人が自分の不安ゆえに子どもの行動を制限しようとしている。リスク計算は自分の身を守るために他者をしばりつけるものなのだ。
ー障害者がサポートを受ける場も「就労継続支援A型、B型」というように、名称自体に「就労して納税者になる」ことが目的であると明記されているのだ。このように、障害者も労働へと駆り出される。
ー社会科学の論文のみならず、新聞や雑誌がインタビューを用いるときには、要約し、わかりやすく書き直すことがほとんどである。しかし、私はあえて「語られた言葉をそのまま記録する」ことの重要性を主張していきたい。
ー「すぐ」「もう」「しょっちゅう」「ずっと」と交わらないリズムが複雑に絡み合った状況を暗示する。
ー統計はどのような確率でがんに罹患するのか、といった統計的指標を与えてくれるが、患者ごとに病の意味はそれぞれ異なる。それぞれ病をどのように受け止め、どのように病とともに暮らしていくのかは、自分で言葉にし、誰かに語ること(あるいは語らないことを選択すること)でしか意味づけられない。
ーそのためには「一人ひとりの個別の経験」の視点にこだわることが大事になる。
ー草の根の活動の存在を、政治が福祉をなおざりにする口実にしてはいけない。私たちは国家のために生きているわけではない。
ーボトムアップで作る社会。(1)かすかなSOSへのアンテナ、(2)すき間に追いやられて見えなくされている人を探すアウトリサーチ、(3)生活をさせるアウトリサーチ、(4)複数の居場所。
ーそもそも数字と競争に追われることになったのは、数百万年の人類の歴史のなかでたかだかこの200年間の西欧型社会においてだけである。
無理やりまとめると、以下のようになるのかな?
数値データなどでエビデンスを示すことは、個々の示されている事象を平均化するあるいはまとめる作業を伴い、客観化されるということで過剰に美化され、その結果、本質的な大事な事柄が落ちていくことに危機感を抱いている。
私が仕事をしていたとき、会議の議事録をまとめる際に、なるべく、言葉を発した人が言った言葉をそのままなるべく臨場感が出るようにメモしていたことを思い出す。議事録などを作成する際に、まとめてしまうと、言葉のニュアンスというか、会議のムードみたいなものが、ぬけおちてしまいがちなので、そうならないように、あとで議事録や議論の際に伝わるようにメモで表現するように心がけていた。また、英語のるん文などを訳す際にも、できるだけ原文のニュアンス、ときには直訳に近い表現を取るように心がけていた。だから、訳文などは、「直訳っぽいね、日本語の文章としてはもっと寝る必要がある」などと揶揄されることが多かったけど、あえて私は修正しなかった。それはそれで、意味のあることだったのだと、この本を読んで再認識した。
今の世の中、ワイドショーなどで、コメンテーターやメディアが必要以上に簡潔にまとめた文章が氾濫しているように思う。難しい技術の説明などを、簡単な言葉で説明しているが、ちょっと過剰ではないかと思う。難しい内容は、難しくても時間をかけて、部外者あるいはやじうま的な興味を持った人でも、自分で調べて、できる限り正しく理解する必要があると思う。
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