戦国時代で視聴率を忖度してきた従来の大河ドラマに対して、今回の.大河ドラマ「光る君へ」の平安王朝を対峙させた意味が大きい。それを提起していたのが、関幸彦『藤原道長と紫式部 / 貴族道と女房の平安王朝』(朝日新聞出版、2023.12)の新書本だった。最初にページをめくった冒頭に、著者は「<王朝時代の復権>。本書の目的はズバリこれに尽きる」とまえがきに投げかけた。
まさに衝撃的だった。従来の大河ドラマの基本は男性中心社会そのものを描くことだった。いわば、日本の戦うサラリーマン戦士の栄養ドリンク剤でもあった。大河ドラマが放映されるたびに、「また戦国・幕末かよ。たまには、信長・秀吉・家康を抜きにして光が当たらなかった逸材を掘り起こせよ」とオラは毎回のようにほざいていた。もちろん、命がけの戦国武将らの生きざまはそれなりに人間の生き方の波乱万丈を示す手引書であったことは否めないが。
そんな中、「道長と紫式部」を対等に描いていくというところが象徴で、そこに脚本家・大石静の戦略がある。当時の女性の本名は無いと言っても過言でない。紫式部も清少納言も本名は不明だし、『更級日記』の作者は菅原孝標の女(ムスメ)、『蜻蛉日記』の作者は藤原道綱の母という具合。
また、独裁者のイメージが強い道長の実像は文武両道に優れ、紫式部を支援し自分も和歌をたしなむ文人の面が見落とされていた。自分の娘を天皇の后にしていき、摂政・関白として天皇を「操る」戦略も見え見えだとしても、女性たちのパワーはそうそう負けてはいない面もうかがえる。今回のドラマはそんなところに光を当てている。
日本は中華思想の影響を受けてそれをグローバルスタンダードとして真似てきたが、国の内外の矛盾は王朝時代を現実的なローカルシステムへと移行させていく。そこに、女流文化というものが従来にはないアイテムとして花開いていく。その条件には、天皇や藤原氏の攻防が錯綜していき、女性たちの存在感が文学という形で時代を動かしていく。
なにしろ、徳川300年の歴史を大きく上回る400年ほどの平安文化の存続の秘密を探りたいものだ。それが日本文化の基底となっていくのだから。
著者によれば、平安時代は中華権威主義文明からの離脱にあると言う。それは、漢字表記から仮名字表記への革命であり、そこに女性の果たした役割も大きい。同時に、天皇の名前も「天」とか「文」とか「武」とかの中華皇帝表記のまねではなく独自性を発揮したことでもあり、天皇は政治の中心ではなく象徴・文化のシンボルとなり政治は貴族官僚の請負とすることで、逆に世界でも珍しい天皇制の永続を獲得して今日に至る。
道長・式部という対照的な立場を題材にして、日本的に熟成しつつある王朝国家の本質を俯瞰した本書の鋭さが小気味いい。