ウォーキングの楽しみの一つが古い石塔との出会いだ。左に「享保十三戌申十一月日 岩川村」、右に「庚申講中」と刻字された庚申塔に出会う。日にちは庚申の日が使われるが省略されている。それはこのころから信仰変化つまり形骸化の進行ではないかと思われる。
1728年江戸中期に作られた駒型の青面金剛像(39cm)は、左手に輪宝・弓、右手に三叉槍・矢という定型の持物に、三猿。珍しいのは頭巾にとぐろを巻いた蛇らしきものが絡んでいることだ。
表情は眼が吊り上がった憤怒相。駒形のてっぺんから「月」と「太陽」をつないだラインがあるのも珍しい。そのラインの意味はわからない。300年近くの時空を越えてこうして現代に存在する意味もあり、それを大切に保存してきたムラの慎ましさに驚嘆する。
その横にも、地蔵菩薩の庚申様が並んでいた。左に「元文二巳天十一月六日 岩川村講中」、右に大きく「庚申供養」、と刻まれた、1737年江戸中期の庚申塔だ。年号の「巳天」は本来「丁巳」のはずだが間違いなのかどうかはわからない。左手に「宝珠」右手に「錫杖」という定型を守っている舟型像だ。
近世庚申塔の造立は11月が多いが今回の二つの像もそれを踏襲している。造立日は60日目のあたり日(庚申)が刻印されるが、「吉日」とされることも多くなっていくらしい。
庚申塔の造立を江戸・関東周辺調査によれば、1690年代と1710年代がピークであるという。その意味では、ピークが終わってしまった1720~30年代の庚申塔だが、ムラ(関東)の「庚申講」がしっかり生きている証左ではないかと思う。
オイラの集落ではいまだに「庚申講」が60日毎に行われている。庚申の絵図に向かって「真言」を唱えて、お供えした生米一掴みをみんなで味わう。地元では農業の神様と解されている。昔は徹夜で晩餐を楽しんだらしいが、今では数人で酒とつまみの飲食をしながらよもやま話や情報共有で終わる。しかし今は顔ぶれは決まってしまい女性はほとんど参加しない。