山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

誰の石碑かなー、岩水寺(4)

2020-11-14 22:47:08 | 石仏・石造物

 遠州・浜北区にある岩水寺の中央の「赤池」周辺には、個人の石碑が並んでいる。きっと、お寺にかかわった人や郷土の人に違いない。しかし、なじみのないオイラにはそれがどんな人だったかがわからない。それを案内板かなにかに解説があるとそれらの石碑が宝となる。またそれを寄進した人にもお礼にもなると思うのだが。

     

 そのなかに、「小杉吉乎?翁之碑」というのがあった。小杉さんがどういう人であったかはわからない。注目したのはその揮毫をしたのが、岡田良平という元文部大臣だった。近くにあるデカイ「山下青厓」(郷土の日本画家)の石碑の揮毫も岡田良平だった。(2020.8.31blog)

 岡田良平は掛川市出身の「大日本報徳社」の社長でもあった。オイラは報徳社の活動は今でいう日本版のNPOではないかと思っている。ルーツはもちろん二宮尊徳だが、彼の社会貢献の思想をもっと学ぶべきだとかねがね思っている。彼の哲学をふまえた事業家が戦前にはいたが、現代にはなかなか見当たらない。

           

 小杉翁の近くには倒れそうな石碑があった。刻んだ文字を見ると「豊竹和田太夫碑」と読み取れる。どうやら浜松出身の浄瑠璃の太夫のようだ。昭和4年75歳で亡くなって西来院に墓があるらしい。ということは明治から大正にかけて義太夫節が健在だったということか。日本のオペラでもある義太夫節の語り手と音楽の三味線と人形遣いの「三業」による総合芸術は、江戸中期以降日本の各地に広まっていた。今でいう流行歌くらいの存在だった。したがって、「太夫」はそれらのコーディネーター・監督の役割だったようだ。

 さりげない石碑の痕跡からそんな片鱗が見え隠れする。なお、小杉・豊竹の石碑の間には、「山崎宋?三郎君之墓」というシンプルな墓碑があったようだが、全くその存在の意味がわからない。謎だらけの岩水寺の石碑群に混濁するオイラだが、寺に漂う世俗化がもったいない。

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