鳥取県西部の東伯に南条氏の羽衣石城がある。南条元継は秀吉の中国攻略のとき毛利から織田に寝返えったため、羽衣石城周辺で毛利方と小競り合いが続いていたが、毛利方の吉川元春が馬ノ山へ陣を敷き南条氏の羽衣石城に対陣した。それを知った羽柴秀吉は羽衣石城の南条元継を援護すべく伯耆に向かった。秀吉は、吉川元春の馬ノ山砦への付城(陣城)を築いた。それが十万寺所在城というのだ。
それを確かめるべく十万寺に向かった。
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▲十万寺所在城跡全景
十万寺所在城跡 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石
十万寺所在城跡は十万寺集落の北に聳える標高423.3mの山に築かれ、羽衣石城からは谷を隔てた南方に位置する。頂上に小さな曲輪を数段有しその北西に堀切を挟んで主郭がある。主郭は北と東の尾根筋を大きな空堀で分断し、広い曲輪(東西約70m、南北約50m)の周囲に土塁を設けている。主郭の南西に鞍部がありその北西に延びる尾根筋に段曲輪が続く。
令和元年度からの城郭調査により十万寺の城跡の構造の分析より、羽柴秀吉が築いた陣城跡であると判断された。広い土塁囲みの曲輪や空堀、堀切、段曲輪等秀吉が当時築いてきた一連の陣城に酷似し、この周辺の山城には見られない職豊系の城跡をもつ。
『信長公記』に秀吉が伯耆に出陣した記述がある。毛利方の吉川元春が馬之山に居陣し羽衣石城への攻撃を見せたため、秀吉自ら伯耆に出向き、南条氏の援護に羽衣石への兵量の補充と吉川の陣への陣城を築いた。その陣城がこの十万寺所在城で、「たいこうがなる」と十万寺の村人に伝わっていることもそれを後押ししているようだ。
従来、秀吉の陣は馬の山(106.9m)(梨浜町大字上橋津)の毛利勢に対して秀吉は御冠山(標高186.4m)(同町大字宇谷)に陣を敷いて対陣したと言われてきたが、御冠山には陣跡の痕跡はなく、江戸時代以降の創作とみなされている。
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▲位置図 by Google Earth
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▲赤色立体地図 2019羽衣石城シンポジウム冊子より
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▲登城イメージ
アクセス
羽衣石川上流域を進み十万寺の集落の行き止まり近くまで車を進め、空き地に車を止めて歩く。ここからは中国自然歩道となっている。
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▲車道の終点近く
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▲車道の切れた地点
車道の切れた地点を進む。左上に十万寺の城山が見え始める。
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▲城山
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▲案内標示の羽衣石城跡4.9kmは自然歩道を通る道のりを表す ▲谷川には頑丈な石積みが敷かれている
1kmほど歩いたところに、ぎゃあーるご水(蛙池)という場所に至る。
案内標示には、ここから200mのところが十万寺(小字)とある。
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▲ぎゃあーるご水 ぎゃあーるとは蛙(カエル)のこと
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▲谷川沿いの道をあるく
歩きかけて20分ほど進んだところに分岐がある。赤テープを巻いた杭がありここを左に折れる。(この分岐をうっかり見落とすと大変 (^^; )
ここから城山の急な東斜面を登ることになる。足元がすべりやすいので注意。
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▲ここを左折する(赤の杭が目印) ▲急斜面だがもうすぐ
ここを登り切ると、広々とした空間が現れる。尾根筋を切った空堀をぬけ、その先を進むとまた大きな空堀と傾斜のある切岸が見られる。
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▲登り切ったところ ▲空堀
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▲主郭北の大きな空堀
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▲上に見える場所に主郭がある
上に登ると、土塁に囲まれた広い曲輪がある。これが主郭だ。
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▲主郭 土塁に囲まれた広い曲輪 これが地元で「たいこうがなる」と伝わったゆえんだろう。
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▲主郭北側 土塁が取り巻く
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▲主郭から北を望む 羽衣石城と本郷池、日本海が見える
主郭の南東にはこの城山の頂点(三角点423.3m)がある。その途中に堀切があり、頂上には小さな曲輪が幾つか取り巻いている。
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▲堀切 この右上は頂上で曲輪がある
雑 感
天正9年(1579)6月25日鳥取城攻めに秀吉は3万の兵で姫路より挙兵し、7月25日には鳥取城の包囲網を完成させたという。その戦いに秀吉は鳥取城に対する付城を帝釈山(本陣山)に築いている。それが太閤ケ平(たいこうがなる)という。
この呼び名と同じものが十万寺集落に伝わっていたという。土塁に囲まれた曲輪は、確かに本陣山の太閤ケ平と規模の差はあってもよく似ている。
調査で御冠山の陣の伝承が見直をされ、秀吉の陣城が十万寺所在城であるということが確かめられ、東伯の戦国史が明らかにされたことは、大きな成果だったと思う。ここにも航空レーザーによる赤色立体地図が大いに役立ったようだ。
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▲秀吉が築いた太閤ケ平 土塁に囲まれた広い曲輪
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