郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

もう一つの宍粟 ③ 北海道開拓の背景

2019-10-25 10:02:43 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
もう一つの宍粟 ③ 北海道開拓の背景
                閲覧数4,931件(2009.3.32~2019.10.25)


◆農場開拓の前に屯田兵制度があった



▲開拓に従事する屯田兵(東京都聖徳記念館蔵)


 北海道開拓団の入植が始まる20年前の明治7年(1874)のこと。対ロシア対策としてその警備に北海道に兵士を置き、日常は未墾地の開拓にあたるという屯田兵制度が設けられた。篠津太は四番目の入植で、明治14年(1881)に19戸入った。狙いは川筋の野生の桑を利用した養蚕業の拠点であった。屯田兵は家族とともに入地し、未開の地を切り開いた。屯田村に住む村民は軍隊的規律により統制され、その規律は家族共々厳しかった。開拓地は札幌近くの石狩地方に始まり、次第に内陸部・道南部に拡大されていった。屯田兵は、国家に事あれば、農事を捨て兵士として軍役が課せられていた。


▲琴似屯田兵村               ▲屯田兵屋


◆アイヌの囲い込みと同化政策 ~北海道開拓の明暗~
 当時、北海道と樺太には先住民族のアイヌ人がいた。彼らは、住んでいた土地から保護地とされた原野に押し込まれ、生活の場が奪われていった。さらに明治30年(1899)、政府はアイヌの保護の名のもとに北海道旧土民保護法を制定し、本土との同化政策をとり、アイヌの固有の文化やことばが失われていった。このような歴史的な背景のもと、アイヌに対する偏見や差別が生み出されていくことにもなった。


◆開拓の犠牲となった朱獄衣の囚人

▲ 樺戸集治監(かばとしゅうじかん)  ▲外役連鎖を着する図


 一方、明治維新後、近代国家への政変のうねりの中で多くの国事犯が生まれ、彼らの収監場所に北海道の地が選ばれ、明治14年(1881)石狩に樺戸集治監が月形に建設され、多くの重罪人が内地から送られた。彼らを待っていたのは想像を絶する過酷な強制労働であった。二人ずつ鎖につながれたままの作業、新開地では虻や蚊に悩まされ、冬の伐木作業では綿入りの獄衣と又引きだけで手袋・足袋はなく、凍傷による激痛の者多く、飲料水は不純で腸カタル(腸炎)にかかる者も少なくなかった。冬の火の気のない獄舎は単衣だけの身、慢性的な睡眠不足に陥り、零下10度の寒さに多くの病死者が出たことが村史に詳しい。
※集治監 (しゅうじかん):明治時代につくられた監獄で、現在の刑務所の前身。所長は典獄(てんごく)と呼ばれた。

屯田兵に参加した宍粟人がいた  ~安富町史から~

◆屯田兵村に入った宍粟人とその息子たち

▲有末孫太郎氏とその息子たち

 この屯田工兵(大尉)で、晩年は村長・農場支配人として活躍した宍粟人がいた。その人は、有末孫太郎(ありすえ まごたろう)氏である。宍粟郡安富町(現姫路市)出身で、結婚と同時に新妻と共に北海道に移り住み、屯田兵士、屯田工兵大尉、村長、その後京極農場支配人となり、明治中期の北海道開拓や地方自治に貢献している。
 その息子(長男)が、有末精三(せいぞう)氏で、陸軍の軍人として最終階級は中将にまで昇進した人である。戦後は、マッカーサーのGHQの戦後処理に直接関わった人物・有末機関長(対連合軍陸軍連絡委員長)としてその名を残している。精三氏の他には、有末次(やどる)・陸軍中将、有末四郎・陸軍軍医大尉等がいる。有末次氏は日米開戦には反対の立場をとり、戦争回避を唱えたが阻止できなかったといわれている。有末四郎氏は、昭和61年に北海道庁より道民の健康の保持増進と福祉の進展、環境衛生の向上に多大の貢献をしたことにより功労賞を受賞されている。


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