地名由来 「生谷・下町・宇野」 宍粟市山崎町
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山崎町蔦沢地区内
■生谷(いぎだに)
揖保川の支流伊沢川の下流域に位置する。生谷の生を「いぎ」と発音するのは事の始まりを意味し、蔦沢村の始まる地に立地するのが村名の由来といわれる。
【近世】生谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領。安政年間(1854~60)から紙漉(かみすき)が行われ、藩に御用紙を納めている。職人は伊予国から招いたという。神社は、岩淵神社。明治初年生谷温泉開設。明治22年蔦沢村の大字となる。
【近代】生谷 明治22年~現在の大学名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和30年生谷温泉を再開したが、のち不振で閉鎖。平成9年山崎町が主体とした第三セクター「伊沢の里」を開業し今に至る。
■下町(しもまち)
揖保川の支流伊沢川の下流域に位置する。地名は、中世長水山城の大手にあたり、武士や商人らが居住して町屋が多かったことから、町と呼ばれたことによる。隣村に中町・上町がある。
【近世】下町村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領。慶長8年(1603)姫路藩主池田輝政は「下町村」のうち265石余など計1千石を家臣の黒田四郎兵衛に与えた(黒田定清家譜)鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図に「下町」とみえる。神社は、巌石神社。社殿背面には約10mの立石がそびえ立ち、磐座信仰の神社となっている。小字名として、与泰寺(よたいじ)と長泉寺(ちょうせんじ)が現存し、2ヶ所とも長水城に関連する寺があったという。明治22年蔦沢村の大字となる。
【近代】下町 明治22年~現在の大字名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和47年町民スポーツセンター設置。平成5年山崎町学校給食センター完成。
■宇野(うの)
「かみまち」「かんまち」とも呼ぶ。揖保川の支流伊沢川中流左岸に位置する。地名は、背山の中世の長水城主宇野氏にちなむ。
【近代】宇野村 明治初年~明治22年の村名。宍粟郡のうち。明治6年玉鉾学校開校、同9年唯称寺に移り伊水小学校と改称。
【近代】宇野 明治22年~現在の大学名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。
□上町村(かみまちむら)
【近世】江戸期~明治初年の村名。播磨国宍粟郡のうち。「かんまち」ともいう。当村から中町村が分村。分村年代は寛文年間と思われるが、不詳。揖保川支流伊沢川の左岸。村名は、地内の背後にある長水山城の大手に当たり武士・町人の住居が集まり、町場を形成したことによる。「正保郷帳」では、「伊沢ノ上町」と見える。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領(林田藩預り地、大阪城代内藤氏領、姫路藩預り地、京都代官支配、三日月藩預り地、大坂・生野・倉敷各代官所支配)、明和6年(1769)からは摂津国尼崎藩領。
現存する小字として町裏・町屋敷・天子・天地・殿町・構があり、長水城の城下町がこの地にあったことをうかがわせる。
当村は紙漉の盛んな村で楮も栽培し伊沢谷随一であった。神社は、武速(たてはや)神社。寺院は、浄土真宗本願寺派唯称寺の前身の庵があった。明治初年に中町村と合併して、宇野村となる。
□中町村(なかまちむら)
【近世】江戸期~明治初年年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと上町村の一部、寛文年間(1661~73)同村から分村して成立したと思われる。
当村では寛文年間(1661~73)すでに紙漉が行われていたという。明治初年に上町村と合併して、宇野村となる。
◇今回の発見:播州は古くからの和紙の生産地で、蔦沢地区の伊沢川流域は、紙漉き業が特に盛んであったこと。長水城主宇野氏の城下に上町・中町があり(現在の宇野)、その地名の名残が下町だということ。