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▼坂本城 西の天神山方面からの鳥瞰
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坂本城跡のこと
坂本城の築城は南北朝期のものとされています。
室町時代に、赤松総領家の赤松満祐が播磨守護となり、書写山の南方、天神山の東麓、坂本の地に方形居館の守護所を置き播磨支配の拠点としました。赤松満祐は京都の屋敷に住み、守護代がこの城で執務していました。
この地は、姫路市書写にあり、夢前川を渡る西行きの因幡街道の要衝の地でした。赤松満祐は嘉吉の乱(1441)で、将軍足利義教を殺害し、京都からこの城に戻り、幕府軍と戦いました。しかし、耐え切れず、城山城に移動し立て籠もるが討ち死にし、山名氏がこの地の守護となりました。応仁の乱(1467~77)のあと、再興した赤松氏が奪い返すも、以後この地で幾たびかの戦いが繰り広げられました。
南北朝時代から戦国時代に長らく存続した坂本城でしたが、その後、いつごろ廃城となったの かは、はっきりしていません。
『播磨鑑』には、「堀之城 余部郷西坂元村、村ヨリ1丁午ノ方、長七十四間横四十八間、城主は赤松左京太夫満祐(中略)、応永二十九年(1495)飾西郡余部ノ郷ノ書写坂元ニ平城ヲ築キ塁石壁門ヲ堅クシ総郭廻リニハ大掘ヲホラセ依之堀ノ城トモ御構ノ御所トモ云也」とあり、その屋敷は、「堀の城」とも「御構(おかまえ)の御所」ともいい、74間(134m)×48間(87m)の屋敷に塁・石壁・門の総郭の周りに大掘を掘らしているとあります。
字限図に、天神山東に溝江・大門・門ノ外など、城の名残りと考えられる小字が残されています。
▼字限図
▼坂本城跡平面図
▼坂本城跡鳥瞰 ○は城域
昭和56(1981)年から発掘調査が行われ、東側の堀や井戸、土塁の築造技法などが確認されています。備前焼のすり鉢や土師(はじ)器の皿などが出土しています。
参考:「日本城郭体系」
アクセス
兵庫県立大学姫路書写キャンパスを南に下がると、大きな池(桜池)がありその東端にあたります。
現在は南西側に土塁の一部が保存され、土塁横の道路端に碑と案内看板があります。
▼南に向かって右 ▼土塁横の碑 向こうに見えるのは天神山
▼道路きわの土塁と堀の一部
▼桜池の東端に残る土塁の一部
▼桜池
雑 感
坂本城は、堀で囲まれた近世の平城の原型的な形であったと思われます。 残されているのは土塁の一部だけで、実測150mから160m四方の大きな規模の城域は真ん中を道路が寸断し、土塁はほとんどなくなり宅地化されています。
この地は前期赤松の播磨統治の中心地で、嘉吉の乱の攻防やその後の山名氏との抗争がこの地で何度も繰り返されています。それを想起する遺跡がほとんどなくなってしまったのは残念です。
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