快気分析

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仕組みとアプローチ -  家康にとっては明智光秀が(仮に冤罪だったとしても)仇討をしてくれた形になった恩人だと言う面は有るのではないか

2021-06-01 19:30:30 | 明智光秀
 当ブログでこれまでの明智光秀関連の記事を閲覧して頂いた方ならおそらく納得できると思うのですが、仮に明智光秀が信長襲撃の主犯と仕立て上げられたとしても、名目上は信長を討ち取った首謀者となったわけですが、この名目であっても実は家康にとって「親族の仇討を明智光秀が代行してくれた」と言う事になる面も有ったのか考えられなくな無いと思っています。
 その根拠ですが、まずは正室の築山殿と嫡男の信康の暗殺を命じたのが信長であると言うのが通説である事。
 そして家康にとって桶狭間の戦いで何とか三河に逃げ延びる事が出来たのは、叔父である水野信元による工作であり、その命の恩人を信長の命令で暗殺しなければならなかった事、そしてもう一つは水野信元の兄弟で水野信近がやはり桶狭間の戦いの後に信長の意図とみられる「未必の故意」で桶狭間の戦いの後、今川家臣の岡部元信により落命した事が有ります。
 正室と嫡男と叔父二人が信長の命により落命し、しかもこの内3名はあたかも家康が実行したかのような形にさせられてます。
 家康が武人としての立場を正当化するには、信長を討った(のか、或いは信長を討ったとされてしまった明智光秀)に「自分に代わって仇討してくれた」と言う事で恩人としなければならない立場だったのではないでしょうか。
 日光東照宮の近くに有るエリアを明智平と命名したのはその意思表明で有ったと思えるし、そして更には家康が築山殿の死後、正室を(迎えようとすればいくらでもできたのに)決して迎える事は無かった、と言うのも同様に「家康の武人としての立場の表現だった」のではないかと思っています。


仕組みとアプローチ -  なぜ信長は家康と重臣らの僅かな人数だけで安土城に来るように招いたのか

2021-05-31 20:52:20 | 明智光秀
 甲州征伐で武田勝頼らの甲斐武田氏が滅亡し、信長にとってはメデタシメデタシと言う事で、家康へ所領拡大する話もほぼまとまって来ていた状況で、信長は家康と重臣らの僅か数十名程度だけで安土城に来るように(暗黙の命令)言い渡します。
 これに対して家康と家臣らの間で果たしてどうすべきか?で様々な議論がなされたようですが、結局は(表面上は)信長の要請通りに僅かな人数で信長のいる安土城に行く事になりました。
 そして特に狙撃、襲撃される事もなく無事に信長のいる安土城に着いて、家康ら一行は信長の接待を受ける事になったのですが・・・・・・・・。
 でもこの信長の「招き」っておかしいと思いませんか?
 本当に家康ら一行の安全を考えたのなら家康らに「途中で盗賊や武田氏の残党などの狙撃や襲撃がまだ有るかも知れないので大体1万~3万の将兵と共に来てネ」と言うはずではないでしょうか。
 信長が仮にそう要請(暗黙の命令)をした場合にはもう一つのメリットが有ったと思っているのですが、それは家康の徳川勢がより大勢の将兵を連れて来れば、当時信長が討伐しようとしていた毛利氏や長曾我部氏などにかなりの威圧できる、或いはそのまま戦闘に参加させる事ができるはずだったはずだからです。
 なのに何で僅か数十名とかと言われる重臣らだけに安土城に来るように言ったのでしょうか?
 この件については個人的と言う程度ですがこう考えています。
 それは「仮に家康らの徳川勢が伊賀衆や滅亡した武田氏の残党を匿っていて、つまり裏で吊るんでいればおそらくそれら残党らに襲撃される事は無く無事に安土城まで辿りつけるどうから、その場合にはそれから抹殺すれば良いし、仮に家康らの徳川勢が伊賀衆や滅亡した武田氏の残党を匿っておらず、それら残党に襲撃されればそれはそれで所領を織田家のものにできるからそれも良い」と言うものだったのではないか。
 そしておそらく伊賀衆の残党やら滅亡した武田氏の残党らがまだウロウロしているはずの街道を無事に家康と重臣ら一行は何事も無く無事に安土城に到着したのでした。
 鷹狩が好きだった信長は疑い深く、そうやって実験しながら敵方と共謀していないか、と言うのを常に事象分析していたのだと思っていますがどうでしょうか。
 そして安土城に無事着いた家康ら一行が、やはり伊賀衆の残党や滅亡した武田氏の残党を匿っている、と信長は確信し、そして信長が自ら手を下すカタチにはせずに家康ら一行を誰かを使って抹殺にかかったのかどうか。(史実として実際に家康は旧武田の将兵らを採用して力をつけました。そして伊賀衆も同様です。)
 そんな状況の時だったのかどうか、と言うのは今となっては明確にわからないもののやはりと言う感じで本能寺の変は発生し、信長は抹殺されたのでした。
 

仕組みとアプローチ -  山崎の戦いで明智光秀が即日大敗したのは土岐一族による「味方討ち」なのか

2021-05-30 19:45:45 | 明智光秀
 最近の新型コロナ感染拡大の影響で多くの事業者がダメージとなるような悪影響を受けているようなのですが、当ブログでは何故か新型コロナ関連カテゴリーとは程遠いとも考えられるような明智光秀関連記事の方が閲覧比率が遥かに多いと言う状況です。
 当ブログでは別に閲覧件数を目的とはしていないので、閲覧件数を上げる為と言う程でもないのですが、世間の関心事が何かを考慮して今回は山崎の戦いで明智光秀が即日大敗した件に関して記事にする事にしました。
 史実が証明している事実から書きましょう。
 それは「土岐一族が明智一族を味方討ちにしてでも土岐一族の繁栄に成功した」、そう言う事かと個人的は考えています。
 家康の第一側室が土岐一族系の西郷局であり、仮にその実子の秀忠の子が家光と忠長とされているようですが、これについて(個人的にと言う程度ですが)実際には忠長が多くの残虐行為を理由として自刃した後に家光が将軍となったのは、秀忠か或いは家康が福(後の春日局)との間に子を授かっていた可能性が高い、とも考えています。
 その理由は「非土岐一族系の織田家の血筋を権力の座から殲滅するのが目的で有った為」と考えるからです。
 土岐頼芸を筆頭とする土岐一族はそう簡単には新参の武人らに制圧されるわけも無かったわけで、それが徳川幕府としての流れになって行ったのだろうと考えています。
 そう言った意味で、山崎の戦いで明智勢が家康の援軍を得られず即日決着で明智方の大敗となったのが、実は家康らも含む土岐一族系による味方討ちの一環であり、やがて土岐一族の流れを引く徳川家が非土岐一族系を攻略した、と言うのが史実なのではないか、と思っています。
 またそうした真相を知っていたからこそ、福(春日局)が異様に家康や徳川家に強かった、と言うのも納得出来てしまうのです。 
 
 
 
 

仕組みとアプローチ -  信長による人事政策の不可解 「家臣間のいがみ合わせを煽る方式」が破綻したのが本能寺の変と言う考え方

2021-05-23 22:43:30 | 明智光秀
 信長の人事政策については不可解な点が有って以前から気になっていたので今回の記事にしました。 
 それは佐久間信盛の配下に水野忠重、水野(監物)守隆をいれた事です。
 確か水野忠重、水野(監物)守隆の兄弟である水野信元があたかも武田勢と内通しているかのような事を信長にタラシ込んだともいわれいる通説が有るのが佐久間信盛です。
 だとしたら佐久間信盛に恨みつらみが有るはずの水野忠重、水野(監物)守隆を何で佐久間信盛の配下に置いたのでしょうか?
 その目的とは何か?
 勝手な想像かも知れませんが、それは水野忠重、水野(監物)守隆を使って佐久間信盛の配下として見張らせ、仮に佐久間信盛が高野衆らとの癒着らしきものがあればすぐさま水野忠重、水野(監物)守隆にチクらせて佐久間信盛を追放する事が目的だったのではないでしょうか。
 そして実際に佐久間信盛はこのチクりが原因だったのかどうかまでは定かでは有りませんが、結果として追放されました。
 信長はこうした「家臣間のいがみ合わせ方式」をかなりしていた可能性が有ったのではないか?とも思えます。
 その目的とはまさに信長の息子らに権力を集中させる為です。
 そしてその後に発生した本能寺の変では水野忠重と嫡男の水野勝成は織田信忠をさっさと見捨ててうまく逃げ伸び、水野(監物)守隆は一時は明智光秀に同行するなどで、山崎の戦いの後は一部で呼ばわりされてしまう事になりました。
 本能寺の変については水野氏が首謀者かどうかまではわかりませんが、水野氏関与説の可能性はゼロではないと考えています。
 

仕組みとアプローチ -  実は明智光秀の娘が首謀者である可能性もゼロではない「本能寺の変」

2021-04-07 04:19:00 | 明智光秀
 明智光秀の娘が荒木村重に嫁いで、その後に荒木村重が信長に反乱。
 それで仕方なく明智光秀の娘は荒木村重と離縁して明智秀満と再婚。
 その明智秀満が本能寺の変に於いて先鋒の一人だったわけです。
 そうであるなら次のようなロジックも成り立ちますね。
 「明智光秀は我が娘を守りたかった、それで明智光秀の娘は荒木村重と離縁して明智秀満と再婚した事で守られたがその当人である明智光秀の娘はやはり元夫である荒木村重を忘れられずに荒木村重を守りたかった。仮に信長による毛利征伐が実行されると荒木村重はおそらく信長によって凄惨な死に方をするか、或いは安楽死により近くなるような自害の手段(松永久秀の爆死とかのような)を選択するしかなくなるわけです。
 「明智光秀は別に荒木村重を守りたかったわけではないが、しかし明智光秀の娘は一度は嫁いで夫婦関係となった荒木村重に未だ未練が有り何としても荒木村重を守りたかった、それで明智秀満を焚きつけて本能寺の変に誘導した」と言う可能性は十分に有り、かとも考えられなくも有りません。
 「男女間の見えざる絆」と言うのが無視出来ないのは、「主君と家臣の絆」以上の「男女間の絆の問題だから」です。
 仮にですが夫婦仲が良く、「男女間の見えざる絆」がかなり強かった場合には「主君と家臣の絆」なんて問題にならない位の高レベルのものだったのかどうか、それは歴史が語っているのかも知れません。
 確かに「男女間の欲情とは『主君と家臣の絆』なんかに勝るものであった、と言う可能性はゼロではない」と言う事だからかとも考えられなくもありません。
 日本に限らず世界の歴史においてこう行ったいわばタブー的側面を無視して歴史の真相は語れないのだとも思えます。