快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 逆臣や逆賊というレッテル

2017-11-19 08:12:55 | 地震 津波
 光秀が主君である信長を討てば「逆臣」となります。
 ではこの汚名をかわすにはどうすれば良いのか?と言えば、それは征夷大将軍である足利義昭を追放した信長に報復した、と言う大義名分があれば良いことになります。
 「しかし信長だって本能寺の変の時は右大臣だったのだから、征夷大将軍である足利義昭を追放したのは別にいけなくはないのでは?」と言う疑問が有るかもしれないのですが、そうでは有りません。
 信長が足利義昭を追放したのは1573年。
 その信長が右大臣になったのは1574年。
 更に右近衛大将になったのは1575年。
 つまり右大臣でもなく一大名に過ぎない信長が征夷大将軍である足利義昭を追放したのは、広義には「逆賊」となるわけで、ならば光秀が足利義昭を京都に戻して、仮に元の足利幕府復活ができれば、光秀は「逆臣」のレッテルは貼られずに済む、言わば足利義昭擁立は明智光秀にとって命綱だったと考えています。
 これは毛利氏とても同様で右大臣、右近衛大将の信長を討つとなった時、征夷大将軍である足利義昭を立てれば、やや際どいとは言え一応は「逆賊」のレッテルを回避できる事になるので、足利義昭を手放すわけは無かったと見ています。
 では光秀がかなり以前から足利義昭が戻るように連れ出す工作をしていたのか?と言えばそのよう史実を伝える資料を特に筆者は確認できておらず、以前の記事で引用したような、寧ろ本能寺の変が起きてからあわてて足利義昭擁立の根回しを付け焼刃程度に行った位の書状しか残っていない様です。
 これが何を意味するのか?と言えば、それは本能寺の変が明智光秀の想定外の時に発生してしまったから、或いはもう少し可能性を広げるとすれば、本能寺の変を起こす必要性が突然生じてしまったからだと考えています。
 ではそれらの必要性とは何か?と言えば、それは急に決まった織田信忠の征夷大将軍就任決定と足利義昭に解任決定ではないでしょうか。
 以前の記事では光秀の想定外で斉藤利三が暴走した可能性について書きましたが、少し考えが足りなかったかも知れません。
 更にもう少し考察を進めると可能性は低いものの次の様なケースも考えるようになりました。
 それは、「織田信忠の征夷大将軍就任決定と足利義昭解任決定で、あわてた光秀が斉藤利三らとやむなく計画した、そしてやはり追い詰められた旧足利幕府奉公衆も同調して本能寺の変が発生した」、と言う事です。
 そして筆者が考えているのは、前日である6月1日の茶会でこの征夷大将軍の就任、解任の話が出た可能性が有る事です。
 仮に織田信忠の征夷大将軍就任決定と足利義昭解任決定が無かったとした状況で光秀が信長を討とうと考えていたのなら、光秀は計画とは裏腹に毛利攻めにはまさにやる気満々のパフォーマンスで信長と進軍し、到着後か戦闘中に突然毛利氏に寝返ったと思います。
 その方が、距離も近く密使を送って足利義昭と毛利氏に合流できる上、信長や秀吉を討取れる率も高く、そして柴田勝家などの織田の重臣達も当時は遠くにいて直ぐには到着できず、更に毛利軍と明智軍が合流すれば織田方の軍勢とは有る程度の長期戦となったはずで、そうなれば上杉氏、北条氏、長宗我部氏、反信長勢力などが次々と連携をとって攻勢に出て来る事となり、柴田勝家などの織田の重臣達や軍勢は織田vs毛利の戦場となっている中国地方には集結できない、出来たとしても極僅かの軍勢にしかならないと言う状況になり、更に光秀が毛利攻めの戦場に到着してからならば、織田信孝は既に四国に渡航した後であり、梯子を外された織田信孝と丹羽長秀の織田軍は浮き足立って逃亡する雑兵が続出し長宗我部氏を前に敗走した可能性も高かったのではないでしょうか。
 仮にこのケースになっていたとしてもやはり毛利氏には有利となっていたのかも知れません。