快気分析

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仕組みとアプローチ -   本能寺の変と山崎の戦いの謎 明智光秀の土岐一族は「伊甚ライン」の確保を狙ったはず

2019-04-29 21:02:56 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 出雲に「伊甚神社」が有り、日本書紀には上総に朝廷の直轄地として「伊甚屯倉」が置かれたとの記述が存在し、更に上総に限らずこの北緯やその近辺には一宮神社(「いじみのみや」と言うのが呼称の始まりと個人的には見ています)が多く存在しています。
 こうしたエリアは古代から朝廷が勢力拡大の拠点として開発して来た所なので、交通、商業、文化(特に神社)などの要所になっている事が多く、このメリットを土岐一族が目をつけないわけはない、と考えています。
 例えばですが、愛知県の一宮神社は熱田神宮ではなく真清田神社です。
 この神社の位置ですが北緯35度18分27.20秒と言う事で、あの北緯35度15分から20分範囲に入っているわけです。
 因みに信長の織田家は劔神社の神官の家系といわれているようですが、この劔神社は熱田神宮と同様に伊勢神宮系のようです。
 

仕組みとアプローチ -   本能寺の変と山崎の戦いの謎 明智光秀は出雲石見への国替えを寧ろ願っていたと考えられる理由

2019-04-29 17:33:00 | 明智光秀
 以前にも記事にしましたが、明智光秀は出雲・石見への国替えを左遷とは思わず寧ろ願っていたと考えています。
 その理由が石見銀山や日本海側の水運などの利権が当時は莫大だったはずなのですが、これ以外にも土岐一族としての明智光秀が出雲・石見をどう見ていたのかについて追跡して見ると更にわかって来る事が有りました。
 上総土岐氏の所領が現在の一宮町やいすみ市なのですが、その「いすみ」と言う語源は「伊自牟」(いじむ)、日本書紀に「伊甚」から来ているようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B7%E9%9A%85%E9%83%A1

夷隅郡(いすみぐん)は、千葉県(上総国)の郡。

歴史
古くは古事記に「伊自牟」(いじむ)、日本書紀に「伊甚」(いじみ)として登場する地名であり、日本書紀には朝廷の直轄地として「伊甚屯倉」が置かれたとの記述が存在する。郡名としては「夷灊」など様々な当て字が用いられてきたが、江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられ、定着したとされている。

引用終了

 つまり朝廷の直轄地だったわけで現在の一宮町に有る神洗神社がこのエリアにあって朝廷の一族が上陸した地点と言う格式が高い地域であるのもわかります。
 それで「伊甚」と言うのが他の何処に有るのか?と言うの調べて見ると、「伊甚神社」と言うのが島根県に有るのがわかります。
 出雲・石見エリアには「伊甚」が有るわけで土岐一族はこの「伊甚」と言う名の付くこの地域を旧室町幕府奉公衆として是非確保したいと思っていたのではないでしょうか。
 伊甚(いじみ)、そして出雲(いずも)、石見(いわみ)(いしみ)と同じような呼び名が続くのはこのエリアを中心に朝廷が所領を拡大して行ったと言う事ではないか、と個人的には考えています。
 そして更に「いちのみや」とはそもそも「いじみの宮」から変化したもの、と個人的に考えています。
 神社の格式が最上位の「一宮」とは実は「いじみの宮」から来たのではないでしょうか。
 実は北緯35度10分から35度25分あたりには一宮神社が密集しています。
 これが何を意味するのか?ですが、自分なりに次の様に考えています。
 朝廷が東へ東へと権力を拡大するにあたって、自らを神格化するのはまず時計に相当する太陽暦を抑えて先住民に日時の確定と言うカリスマ性を見せつける必用が有った。そしてそれには北緯35度10分から25分、更に狭く見ると北緯35度15分から20分と言う「ほぼ同じ月日に太陽が同じ日没、日の出になるのです。
 つまり日の出や日没の方向と時刻が同じと言うエリアに拠点を構築し、そこから時計に相当するノウハウを抑えて先住民との取引材料にする。
 それを何度も繰り返して先住民とは融合しながらも次第に権力をつけて行った。
 土岐一族はそうした北緯35度15分から20分やその周辺の「伊甚」ラインをっ朝廷に習って押える事で既に商業などが発展しているエリアを所領にできると言う事だったと考えています。
 そう言う価値観で考えれば明智光秀が出雲・石見への国替えを寧ろ好感した、と個人的に思えるのです。


 

仕組みとアプローチ -   本能寺の変 山崎の戦いの謎 明智光秀が不利な野戦を選んだのは何故か

2019-04-29 09:32:13 | 明智光秀
 山崎の戦いは秀吉方が圧勝となりました。 
 原因は兵力の差と言われていますがそれは細川藤孝、忠興親子、そして筒井順慶らが明智方に与しなかった事、そして秀吉の大軍が中国おお返しで到着した事が大きい、と言うのが通説です。
 しかしそれだけ兵力の差が有るのなら明智光秀が兵力の差が戦いに大きく影響する野戦などをしたのか?と言う疑問が残ります。
 日数が経てばやがて柴田勝家らも京都へ軍を進めて明智方には不利な面も有りますが、一方では長宗我部氏が明智方に与するのはほぼ確実であり、更に上杉氏、伊賀衆、雑賀衆の一部、高野衆、旧武田方の国人なども明智方に加わる可能性もかなり有ったわけです。
 実際に旧武田領では武田方だった国人らが一斉蜂起して織田方を追い出しているし、長宗我部氏は秀吉方の三好氏を追い出しにかかりました。
 つまり明智方は篭城して時間稼ぎをすれば苦しいながらも勝敗はわからない、或いはそこまでではなかったとしても山崎の戦いのような短期惨敗は少なくとも避けられたはずと考えられます。
 では兵力で圧倒的に不利だったのに光秀が野戦を選んでしまったのは何故か?
 謎を解く鍵となる事の一つは坂本城など明智方の城が篭城しても大して戦闘を継続できなかった事です。
 これが何を意味するのか?と言うと「篭城戦を想定して武器弾薬、食料などを大して備蓄していなかった。そしてそれを知っていた兵が逃げ出したから」と言う事ではないかと言う事ではないでしょうか。
 では何故「篭城戦を想定した武器弾薬、食料などが大して備蓄されていなかったのか?」と言うかとなると、それは「本能寺の変が明智光秀の想定外に発生してしまったから」ではないかと思えるのです。
 山崎の戦いの謎やそれを解く鍵は他にも有ると考えています。