山崎の戦いでは秀吉方の兵力が明智方を圧倒していたとするのが通説ですが、その主な理由となる「中国おお返し」については以前の記事で書いた通り、「トコロテン方式」や「瀬戸内海の水運利用」の割合も少なくなかったと考えています。
そして後者の水運については、更に調べて行くと興味深い事実が浮かび上がって来ます。
引用開始 2件(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D#%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%8Fあけち
村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1] で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。
(中略)
村上水軍の解体
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E9%80%9A%E7%B7%8F
来島 通総(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代の伊予国の武将、大名。
(中略)
永禄4年(1561年)、村上水軍の一族である来島村上氏当主・村上通康の四男として生まれる。
(中略)
秀吉への接近
天正10年(1582年)、織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は秀吉の元に身を寄せた。なおも兄の得居通幸が鹿島城に拠って戦い抜き、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。
引用終了
本能寺の変の発生前、村上水軍の一族である来島村上氏は既に秀吉方に加勢していました。
これだけでは瀬戸内海の制海権を全て握るほどでは無いのですが、本能寺の変の後、すぐに毛利氏と実質和睦(実は密約で和睦と言うのは後から形にしただけである可能性についても以前の記事で書きましたが)したのです。
これが何を意味するかと言うと、「中立ではあっても秀吉方に敵対する村上水軍はもういなくなった事になり秀吉は瀬戸内海の制海権を握った」と言う事です。
長宗我部氏にも長宗我部水軍と言うのは有りましたが、これは瀬戸内海側では殆んど勢力が無い上、当時において四国の北東部は織田方の三好康長が領していました。
なので毛利氏が秀吉と実質和睦となった時点で瀬戸内海の制海権を握った秀吉はこの海域を自由に使う事ができたはずなのです。
これが兵や武器弾薬、食料などの輸送の面で「中国おお返し」に於ける大きなメリットの一つになったと考えられるだけでなく、実は鉄砲等を使える来島村上水軍の将兵も山崎の戦いで有る程度の兵力であった事も十分に考えられます。
更には、毛利氏が秀吉に「貸し」を作るには秀吉方に直接加勢するのも手では有るが、それは当時の混沌とした状況ではリスクが高いため、間接的に秀吉に加勢する手を考えたはずで、それはつまり毛利方だった能島村上家、因島村上家の軍勢を来島村上家の水軍に偽装して秀吉方に加勢させても、それはわからなかったはずであり、こうして毛利氏は秀吉にノーリスクで加勢できた事になります。
つまり山崎の戦いでは有る程度の割合で村上水軍の将兵(海賊)らが混じっていたものと思われるのです。
水軍ならば数日で兵や武器弾薬、食料などをかなりの規模で短期間の内に畿内に移動する事は十分可能だったとなります。
更には和睦前であっても毛利方へわからぬように来島村上家の水軍を畿内に向かわせる事すらできたかとも思えますが、実際にそれが実行されたかどうかはわかりません。
ルイス・フロイスが「秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れ果てていた」と言う旨の事を書いていますが、疲れていた兵もいたのは確かでしょうが、それだけではなく「水軍の将兵(つまり海賊)も有る程度の数はいたのでこれらの将兵には不慣れな陸上戦になるべく直接参加させたくなかった。がしかし鉄砲など武器の扱いなどがかなりできる将兵も多かったので敵方に兵力を見せつけるのには十分に効果が有った」と言う面も非常に大きかったのだと見ています。
そして後者の水運については、更に調べて行くと興味深い事実が浮かび上がって来ます。
引用開始 2件(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D#%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%8Fあけち
村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1] で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。
(中略)
村上水軍の解体
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E9%80%9A%E7%B7%8F
来島 通総(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代の伊予国の武将、大名。
(中略)
永禄4年(1561年)、村上水軍の一族である来島村上氏当主・村上通康の四男として生まれる。
(中略)
秀吉への接近
天正10年(1582年)、織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は秀吉の元に身を寄せた。なおも兄の得居通幸が鹿島城に拠って戦い抜き、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。
引用終了
本能寺の変の発生前、村上水軍の一族である来島村上氏は既に秀吉方に加勢していました。
これだけでは瀬戸内海の制海権を全て握るほどでは無いのですが、本能寺の変の後、すぐに毛利氏と実質和睦(実は密約で和睦と言うのは後から形にしただけである可能性についても以前の記事で書きましたが)したのです。
これが何を意味するかと言うと、「中立ではあっても秀吉方に敵対する村上水軍はもういなくなった事になり秀吉は瀬戸内海の制海権を握った」と言う事です。
長宗我部氏にも長宗我部水軍と言うのは有りましたが、これは瀬戸内海側では殆んど勢力が無い上、当時において四国の北東部は織田方の三好康長が領していました。
なので毛利氏が秀吉と実質和睦となった時点で瀬戸内海の制海権を握った秀吉はこの海域を自由に使う事ができたはずなのです。
これが兵や武器弾薬、食料などの輸送の面で「中国おお返し」に於ける大きなメリットの一つになったと考えられるだけでなく、実は鉄砲等を使える来島村上水軍の将兵も山崎の戦いで有る程度の兵力であった事も十分に考えられます。
更には、毛利氏が秀吉に「貸し」を作るには秀吉方に直接加勢するのも手では有るが、それは当時の混沌とした状況ではリスクが高いため、間接的に秀吉に加勢する手を考えたはずで、それはつまり毛利方だった能島村上家、因島村上家の軍勢を来島村上家の水軍に偽装して秀吉方に加勢させても、それはわからなかったはずであり、こうして毛利氏は秀吉にノーリスクで加勢できた事になります。
つまり山崎の戦いでは有る程度の割合で村上水軍の将兵(海賊)らが混じっていたものと思われるのです。
水軍ならば数日で兵や武器弾薬、食料などをかなりの規模で短期間の内に畿内に移動する事は十分可能だったとなります。
更には和睦前であっても毛利方へわからぬように来島村上家の水軍を畿内に向かわせる事すらできたかとも思えますが、実際にそれが実行されたかどうかはわかりません。
ルイス・フロイスが「秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れ果てていた」と言う旨の事を書いていますが、疲れていた兵もいたのは確かでしょうが、それだけではなく「水軍の将兵(つまり海賊)も有る程度の数はいたのでこれらの将兵には不慣れな陸上戦になるべく直接参加させたくなかった。がしかし鉄砲など武器の扱いなどがかなりできる将兵も多かったので敵方に兵力を見せつけるのには十分に効果が有った」と言う面も非常に大きかったのだと見ています。