快気分析

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仕組みとアプローチ -  武田信玄の家臣が発明した竹束 そしてその武田軍が大敗した長篠の戦い

2023-06-25 10:38:45 | 家康
 竹束は長篠の戦いの時には既に武田軍でかなり使われていたはずなのは明らかだと考えていますが、この戦いについて火縄銃の数とか武田騎馬隊とか或いは馬防柵ばかりが分析テーマとして採り上げられ、何故か竹束についての総数や使われ方について着目した論議は殆ど見当たりません。
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仕組みとアプローチ -  不可解な合戦絵図しか残っていない「長篠の戦い」
2023/06/18 19:15:12

 で書いた通りで本当は竹束が武田勢、織田徳川勢で果たしてどの位使われて鉄砲から防御していたのかと言うのは重要なテーマと考えています。
 ところでその竹束ですが、当時は通常の火縄銃を想定して作られていた為、長篠城攻めで城を守る奥平勢が使ったと言われる「大鉄砲」には通用しない事がわかり、急遽その対策として竹束の改造がなされた可能性が有るかと思われます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

長篠の戦い
(中略)
長篠城攻城戦
1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻に何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。

引用終了

 難攻不落の長篠城と言えどもやはり大鉄砲が従来の竹束では対応できないものだった可能性は高いでしょう。
 この大鉄砲を当然ながら徳川勢が使っている可能性について武田軍側は考えていたはずなので、そうすると竹束の改造型を作成したりとかしなければなりません。
 ところがその竹ですが当時の森林にどれだけ有ったのでしょうか?
 もしかしてと言う程度ですが、竹束に適した太さ等の竹は案外「品薄状態」だったかも知れません。
 何故かと言うと長篠の戦いは天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)と言う事で、去年以前に生育した竹は既に使われてしまっていた可能性が高く、またその年に生えて来た竹は7月初旬では青竹で未だ柔らかく鉄砲の弾を十分に防ぐ事など出来ません。
 私はこの6月にタケノコが更に伸びた1~数メートルのものをよく伐採しますが、直径4cm前後のものでも塩ビ管とかを切るパイプソーで簡単に切れてしまいます。
 こんなのではとても竹束として使うのは無理ですから、武田軍がどうやって竹束に適した竹を確保できたのか?地元でもない武田軍はアウェイである長篠周辺では強度の十分なものを、もしかしたら十分に確保できていなかったのではないか?と言う見方もしています。
 真相がどうだったのかはまだわかっていませんが、少なくとも長篠の戦いの合戦絵図等で主な装備であるはずの竹束が殆ど描かれていない、と言うのはやはり何かあるのだと思っています。





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