明智光秀が信長から「出雲・石見への国替え」を言われた直後に本能寺の変は発生しました。
京都から遥かに遠い「出雲・石見への国替え」など左遷レベルだったので、本能寺の変に及んだと見るのが通説ですが、筆者は「出雲・石見への国替え」は逆の宝の山であったと見ています。
引用開始(一部抜粋)
http://fish.miracle.ne.jp/silver/history/japan.html
大航海時代と日本銀
日本銀の動きとその役割
日本の対外貿易史では銀の果たした役割が重要であった。16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国だったが、石見銀山に「灰吹法」が導入された後、一転して銀の輸出国に変わった。
(中略)
一方西欧諸国では15~16世紀、コロンブスやバスコ・ダ・ガマが新大陸に到達すると、スペイン・ポルトガルがアジアに拠点を築き、東南アジアの香料をヨーロッパへ輸出する貿易をはじめた。ポルトガル人が1543年種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えたがことはよく知られているが、その頃日本では石見銀山をはじめとする鉱山の開発により銀の大増産が始まり、世界でも有数の産銀国になっていた。
当時、中国では銀による納税が定められていたため銀の需要が増しており、スペイン・ポルトガルは銀による中国との交易を望んでいたが、中国では海禁政策をとっていたため、銀は密貿易によって動かされた。その密貿易集団は後期倭寇 と呼ばれている。「前期倭寇」は14~15世紀、中国人・朝鮮人が海賊行為を行う日本人に対してつけた呼称だが、後期倭寇の内実は中国人・日本人・西欧人などを構成員とする多民族集団だった。スペイン人・ポルトガル人はこの集団に参入することで中国との交易を行うことが出来た。日本からは応永8年(1401)から天文16年(1547)まで遣明船が中国へ渡り、公・私貿易をおこなっていたが、最後の2回は銀を積載していたといわれている。
(中略)
宣教師の見た銀山
フランシスコ・ザビエル 『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄』
「カスチリヤ人は此の島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。」
「…日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない。」
訳者:井上郁二氏・アルーペ神父(岩波文庫)
ルイス・フロイス「1586年・アレッサンドロ・ヴァリニヤノに宛てた書簡」
「あまり顕栄でない一族(毛利氏)が、知慮と勇気により彼の13か国の領主となるに至った。 山脈と日本の銀とを有する石見国がその中にある。」
訳者:村上直次郎氏
(『イエズス会 日本年報下』新異国叢書4 雄松堂書店)
フェルナンド・ゲレロ『日本諸国記』
「これによって内府様(徳川家康)は、今までの日本国の支配権を獲得したすべての人の中で最大となるであろう。なぜなら彼は毛利(輝元)殿から、銀の鉱床がその地にある7ヶ国を没収し、9ヶ国の中で2ヶ国だけを残させているが、それらも時を経てから入手するであろうと考えられているからである。」
訳者:田所清克氏・住田育法氏・東光博英氏共訳
(『16・17世紀イエズス会日本報告集』同朋舎出版)
引用終了
光秀が「出雲・石見への国替え」を左遷と思ったと見るべきか? それとも宝の山でうずうずしていたと見るべきか? 或いは、石見は銀山が有る為、ここを攻めようとすると、利権を持った毛利氏や銀利権を狙うあらゆる者達などから消されると見たのか? この三者のどれなのか?と言うのはわかりません。
ただ確か事は、光秀を使って石見銀山による「銀とその密貿易利権」を奪い取ろうとした信長が途端に襲撃された事です。
当時、石見銀山の密貿易に関与していたのは毛利氏だけではなく、外国人、つまりスペイン、ポルトガル人達も少なくなかったと考えられ、ここを信長に取られる事は避けたいと考えていたとは思います。
毛利氏は当時、反キリスト大名だったのですが、貿易面ではスペイン、ポルトガル人達とも連携していたようです。
信長は「石見銀山とその密貿易利権の地雷を踏んで抹殺された」可能性は高いのではないでしょうか。
秀吉は鳥取城攻略の後、何故か石見には行かず、高松城に行軍しました。
石見に近付くのを避けたのは、ここを攻めると秀吉自身が大怪我をするから、或いは毛利氏との密約が既に出来ていたから、と筆者は考えています。
京都から遥かに遠い「出雲・石見への国替え」など左遷レベルだったので、本能寺の変に及んだと見るのが通説ですが、筆者は「出雲・石見への国替え」は逆の宝の山であったと見ています。
引用開始(一部抜粋)
http://fish.miracle.ne.jp/silver/history/japan.html
大航海時代と日本銀
日本銀の動きとその役割
日本の対外貿易史では銀の果たした役割が重要であった。16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国だったが、石見銀山に「灰吹法」が導入された後、一転して銀の輸出国に変わった。
(中略)
一方西欧諸国では15~16世紀、コロンブスやバスコ・ダ・ガマが新大陸に到達すると、スペイン・ポルトガルがアジアに拠点を築き、東南アジアの香料をヨーロッパへ輸出する貿易をはじめた。ポルトガル人が1543年種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えたがことはよく知られているが、その頃日本では石見銀山をはじめとする鉱山の開発により銀の大増産が始まり、世界でも有数の産銀国になっていた。
当時、中国では銀による納税が定められていたため銀の需要が増しており、スペイン・ポルトガルは銀による中国との交易を望んでいたが、中国では海禁政策をとっていたため、銀は密貿易によって動かされた。その密貿易集団は後期倭寇 と呼ばれている。「前期倭寇」は14~15世紀、中国人・朝鮮人が海賊行為を行う日本人に対してつけた呼称だが、後期倭寇の内実は中国人・日本人・西欧人などを構成員とする多民族集団だった。スペイン人・ポルトガル人はこの集団に参入することで中国との交易を行うことが出来た。日本からは応永8年(1401)から天文16年(1547)まで遣明船が中国へ渡り、公・私貿易をおこなっていたが、最後の2回は銀を積載していたといわれている。
(中略)
宣教師の見た銀山
フランシスコ・ザビエル 『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄』
「カスチリヤ人は此の島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。」
「…日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない。」
訳者:井上郁二氏・アルーペ神父(岩波文庫)
ルイス・フロイス「1586年・アレッサンドロ・ヴァリニヤノに宛てた書簡」
「あまり顕栄でない一族(毛利氏)が、知慮と勇気により彼の13か国の領主となるに至った。 山脈と日本の銀とを有する石見国がその中にある。」
訳者:村上直次郎氏
(『イエズス会 日本年報下』新異国叢書4 雄松堂書店)
フェルナンド・ゲレロ『日本諸国記』
「これによって内府様(徳川家康)は、今までの日本国の支配権を獲得したすべての人の中で最大となるであろう。なぜなら彼は毛利(輝元)殿から、銀の鉱床がその地にある7ヶ国を没収し、9ヶ国の中で2ヶ国だけを残させているが、それらも時を経てから入手するであろうと考えられているからである。」
訳者:田所清克氏・住田育法氏・東光博英氏共訳
(『16・17世紀イエズス会日本報告集』同朋舎出版)
引用終了
光秀が「出雲・石見への国替え」を左遷と思ったと見るべきか? それとも宝の山でうずうずしていたと見るべきか? 或いは、石見は銀山が有る為、ここを攻めようとすると、利権を持った毛利氏や銀利権を狙うあらゆる者達などから消されると見たのか? この三者のどれなのか?と言うのはわかりません。
ただ確か事は、光秀を使って石見銀山による「銀とその密貿易利権」を奪い取ろうとした信長が途端に襲撃された事です。
当時、石見銀山の密貿易に関与していたのは毛利氏だけではなく、外国人、つまりスペイン、ポルトガル人達も少なくなかったと考えられ、ここを信長に取られる事は避けたいと考えていたとは思います。
毛利氏は当時、反キリスト大名だったのですが、貿易面ではスペイン、ポルトガル人達とも連携していたようです。
信長は「石見銀山とその密貿易利権の地雷を踏んで抹殺された」可能性は高いのではないでしょうか。
秀吉は鳥取城攻略の後、何故か石見には行かず、高松城に行軍しました。
石見に近付くのを避けたのは、ここを攻めると秀吉自身が大怪我をするから、或いは毛利氏との密約が既に出来ていたから、と筆者は考えています。