黄泉の国への入り口なのか?
「ドクロ城への道を教えて下さい」と書き込まれています。
独特の世界が展開する武内ヒロクニの絵。
この一言につきるといってもいい作品。
さすがに12月20日で、78歳になるヒロクニさんも死について語ることがある。
「さほり、僕が死んだら・・・・・」と、時に口にする。
「僕が死んだら・・・、武内はこういう男でしたと語って・・・」と言う。
しかし、妻である私は「こういう」の内容をすっかり忘れてしまってる。
いつもの蛇行しながらの独特の語り口、人は「船酔いするような話方と、表現する人もいる」
話を一生懸命聞いていて、その時はなるほどウン、ウン、と思うが、
時間がたったら「何の話だっけ?」といつも記憶に残ってないのです。
また「僕が死んだら・・・、作品を大切にして売って食いつないで」とも言う。
なんか、考えたことない事を言うので、心細くなるのです。
ヒロクニさんには、経済的な事ではあてにならないけれど、
心情的には頼りにしていることもあるのに、最近気がつきます。
物事に対して、非常に中庸的な態度でのぞむ態度に感心もしているし、
日常で疑問に思うことを話したりすると、その答えが参考になるのです。
感情的に向きにならず、公平であったりすることが多い。
そういう時、やっぱり男の人の方が、優しく大らかなんだと思う。
11月、ミュージシャンの写真展をしたドカチン様にもそれを感じました。
(ヒロクニさん周辺の友人には、よくそういう事を感じるのです。)
話を戻します。
ヒロクニさんが死を考えるような言葉を聞くようになって、
ふと思ったのですが、あの世というのは生きている人間には絶対わかりません。
死ぬということは、死を迎えた人の魂がこの世からあの世へ移行する瞬間のこと。
仏教では、輪廻転生があり、また生まれてくるといいます。
そして、この世は修行のようなもので魂を高める修行のようなものといわれます。
そう思うと、誠実に生きることの大切さや、己の欲に従う生き方はだめだなぁ~と思うのです。
お釈迦様は、もちろん嘘をつくことも諌められています。
また、お釈迦様は、自分が実行出来ていないことを、説教するのを諌められています。
有言実行の精神のことです。
最近、わびさびのことを考えて、読書していたら、
一休禅師や千利休がについて非常に多くの事が書かれていて、
仏教聖典「釈尊のご生涯とみ教え」の内容を思いだしてしまいました。
わびさびの精神の背景に、禅宗があり、特に死と対峙する精神にささえられていたからこそ、
美しい精神として、評価されているという事を知り、生死感なしに「わびさび」を語ることは、
とても恥ずかしいことでもあるような気もする。
ヒロクニさんもそういう時を迎えた。
これからの作品を楽しみにしています。
一休 (1975年) | |
水上 勉 | |
中央公論社 |
何故か、ヒロクニさんも「一休」の本を現在読んでいます。
似たようなことを考えているのでしょうか?
ヒロクニさんに「次、この本読んでもいい?」と言うと、
「この本読んでもそんなに面白くないよ。けっこう難しいから~」とご返事が。
読んでいるページを覗いたら、難解そうな仏教の教義の引用の文が目に飛び込んできた。
漢字と文体を見ただけで、なるほど難しそうである。
もう少し、後回しにしようかなぁ~と思案中に突入。
私は、ヒロクニさんがボケないよう、脳の刺激をしてあげようと思っています。
それと、お年よりもあまり甘やかさないがコツじゃないでしょうか?
(ひどい妻かしら・・・)
今年は柿が豊作ですごい数が・・・・。
自宅からはみ出ているところに、趣味でされている自家菜園の畑があり、
自由に取って貰っています。
その頃の絵は、骸骨が並んでいたり、「おはよう地獄」というタイトルが付けられていたり、現在と違う作風の絵があります。明石時代となずけていいかもと思いました。