動画は、そのあと翌日になっていて、作業着のままの女性二人が、その屋上で、疲れ切って、気怠く話し込んでいる様子だった。一人が、同僚に、しきりに愚痴を言っている。それが、「何で、誰も助けに来ないんだろうね?何やってるんだろうね⁉︎」と、非難口調で。さすがに、自分たちを止めた責任者に対する非難は、もう口にしていなかったが。それは、そうだ。屋上から見える周囲は、水没したまま。建物らしい建物は、ほとんど流されて、浮かぶ瓦礫や、火事の炎も燻っているのだ。あの時、彼女たちが、屋上に避難せず、帰宅していれば、どうなっていたのかなど、もう明白なことだからだ。当然のこと、その破壊し尽くされて、水没した街には、とても幸運だった彼女たち以外に、人影などある筈もない。見渡す限りに。彼女たちを除いては、皆、津波に流されてしまったのでは、と言う想像力は、彼女にはないのだろうか。周囲の光景を見れば、彼女、彼女と仲間だけで、どうやって生き延びるかを、考えようとは思わないのだろうか。或いは、壊滅してしまった街の、その外部から、どうやったら助けを呼べるだろうか、とか。まあ、あそこまでの危地に追い込まれていたから、まともな判断も出来なくなっていたのだろうが。ただ、「津波てんでんこ」と言う三陸地方に伝わるらしい重い先人の教えも、結局は、風化してしまっていたのだろう。
翻れば、コロナ禍は、大津波のように、逃げる暇もなく、すべてを押し流したりはしない。しかし、感染症禍も、まだまだ、あまり感染者を出していない日本でさえ、経済的には、様々な人々が、同時に逼迫してきている筈だ。あらゆる人々が、同時多発的に、災厄を被ると言う意味では、似た状況もある。他人の助けを期待出来なくなることもあると意味で。確かに、飲食業者の人たちなどは、特別に大変だろう。しかし、一部の業種を除けば、様々な業種の人たちが、それなりに経済的な損失を被っているだろう。だから、特別に損失を被っている人たちに対してであっても、永遠に皆の血税から、経済的な補填をし続けるなど、そんな余裕などあり得る筈もない。個々に、立ち行かなくなれば、自分たちで努力して、転職なりして、食い繋ぐことを考えて貰うしかない。津波がすべてを押し流していった街に取り残されたとして、何故は他人が助けに来ないのだと怒るのではなく、まず、自分で最大限の生き残りした上での、生き残った人々同士での助け合いになるのだと思う。言われるまでもなく、飲食業者なども、そうして、今、生き残りを図っているのだと思う。しかし、飲食業者などとは言わず、自分も含めた皆の税金や尽力で成り立っている社会からの援助を、ただ無償で得られる当然の権利として声高に主張していると感じてしまう人もいるように思える。
人権主義を、無闇に振りかざす人たちなどに、今でも人気のある米国の故ケネディ元大統領の就任演説にあったのだと思うが、有名な言葉がある。「あなたたちに、国が何を出来るのかではない。あなたたちが、国に何を出来るのか、なのだ。」と、だいたいそんな意味の言葉だったと思う。自由も、人権も、他人の助けを無闇にあてにしていても、守られない。自分のことは、自分自身で、しっかりと面倒をみる.その上で、皆と助け合って、社会を支えいく。その自分自身で、それなりに役割を果たした社会が、自分を救ってくれる。ただ、社会が、危機に瀕すれば、自分が、それなりの役割を果たしてきたとしても、社会に頼れずに、自分自身で切り抜けなければならないこともあり得る。それは、今なのかも知れない。だから、保証が無闇に伴い、たいした規制も出来ない緊急事態宣言などは、いい加減、そろそろ終わりにして貰いたいと、自分は思っている。