今、思うことは、とにかく、このコロナ禍は、物凄く見通しのつけ辛いかつてない事態だと言うことだ。このウイルスは、エボラやエイズのように致命的な性質は持たないが、かなりの感染力があるごとに加えて無症状者が感染させることもある。しかも、それなりの致死力もある。更に、かつて人類を脅かしてきた感染症禍のあった時代と比べて、世界中を多くの人々が、物凄い速度で、往来している。それは、感染症の拡散の抑制を、とても難しくしているように思える。一部の人たちの言うように、このウイルスは、飛び抜けた感染力も致死力も持っている訳ではなくて、中世のペストの流行時の惨害などを思えば、ただの風邪とも言えなくもない。かと言って、先進国を中心に、医療の発達した現代に於いては、高齢者や既往症を持った人々には、かなりの致死率を持っている。それは、それなりの医療サービスを受けてきた人々には、受け入れ難いことになっていると言うことだろう。だから、ただの風邪を少し重くしたような病気なのかも知れないが、世界にパニックをもたらしてしまったのではないか。かなり、象徴的な例は、英国のジョンソン首相で、昨年の流行の初期には、経済最優先の保守派らしく、この感染症には、あまり神経質にならず、集団免疫を得れば良いと主張していた。それが、自身の感染を経て、今度の英国型の危険な変異種による感染爆発時には、声高に、国民の行動抑制を叫んでいた。彼も、このウイルスの中途半端な性格と度し難さを、身を持って知ったのだろう。皮肉な話だが、今、彼の支持率がどれだけあるかは分からないが、前言を見境なく翻して、国民に、煽動的に抑制を促す彼は、それはそれで、菅総理などが持ち合わせない図々しいばかりの強い指導力の持ち主だとは思う。
テレビで、キャスターなどが、二言目には、何故、はっきりした目標値を表せないまま、緊急事態宣言をだらだらと継続するのか、とか。ワクチンの効き目は、副反応は、などと繰り返し同じこと聞いているのを見ていると、時々かなりいらいらすることがある。多分、分かっていて聞いているのだろうが、悪い煽りだなとしか、思えない。さすがに、もう学習したんじゃないのか、と思ってしまう。自分も、専門的なことなどまったく無知な人間だが、このウイルスが、殆どの専門家が、感染禍を十分には、分析も、予測も出来なかったほど、その性質は解明し切れていないらしいことは、分かった。ワクチンも、治験は、同じだけの時間をかけて、その効果や副反応が分かるのだから、開発を始めて一年も経っていないのに、その治験時間を超えた効果や副反応の有無など分かる筈もない。そんなことは、医学的な知識などなくても、最低限、論理的に考えれば、分かることだと思うのだが。とにかく、この人類に、広く蔓延してしまって、その社会さえ侵蝕し始めているようにも思えるこのウイルスを、人類が、簡単に克服出来るようには思えない。悪夢を煽るような話になってしまうが、この感染症禍の克服は、まだまだ遥かに先になるかも知れない。何処にいても、世界のあらゆる場所と繋がっているような時代になっている以上、日本や欧米諸国だけが収まっても、事態は、終息する訳ではない。例えば、五輪で言えば、開催するとしても、ワクチンは、間に合いそうもない。海外からの選手たちにワクチンを打たないとしているが、恐らく蔓延をしていて、ワクチンを国内では打てない途上国の選手たちをどうするのか。その選手たちだけに日本で打てば、それはそれで、問題が、あちこちで、出るだろう。国内でも、完全に収まっていなければ、国民からも批判が出る。かと言って、その国々の選手たちを排除するようなことがあれば、人種差別と言われるだろうし、五輪憲章にも反する。今、五者会談をしても、こんな話迄は、到底行き着く筈もないが。しかし、その時になれば、致命的な問題になるだろう。
そして、一時が万事。もし、今後、ワクチンの効果が余りない変異種が蔓延をし始めれば、今回起きたあらゆる困難は、際限なく、繰り返されこともあり得るのだ。
結局、ゼロコロナなどあり得ず、ウィズコロナと言うことになるしかない筈。いつまでも、社会を止めていてもキリがない。ただ、そうだとして、人々が自由に行き交い、様々に発散して楽しむとか、そんな普通だった日常さえも、見直していかないと、大袈裟に言えば、人類の生き残りも難しいことだってあるかも知れない。個々の人間が社会を支えていて、社会が成り立っている以上、コロナ禍で特定の目立つ被害を受けている人々だけを保障し続けることなど出来る筈もない。一部は、焼け太りをしている人々もいるかも知れないが、殆どの人々は、大なり小なり、苦境にあるのだ。せいぜい、皆が支えなければならない人たちがいるとすれば、医療や介護、それも最前線の現場で戦っている人たちだけだろう。
実際、最後には、自分を助けてくれるのは自分自身、自助しかないことも事実。社会も変わらなければならないが、個人個人が変わっていかないと生き残れない。自分もバブル崩壊も経験したし、大震災も少しは経験した。その経験から言えば、社会に要求出来ることは、社会に要求すれば良い。それは、社会をどんな末端であろうとも、真面目に支えてきたひとには、当然の権利だ。しかし、皆が皆、被害を受けている状況では、結局は、何処からも助けて貰えないことは有り得る。バブル崩壊の時なども、如何に職歴があったとか、こんな技能があったなどと言っても、世の中にそれを支える仕組み自体が失われれば、とにかく、食い扶持を稼ぐ為には、何でもしなければならなくなる。津波は、皆に襲ってくるのだから、まず一人一人が逃げることしかない。他人の助けを待つ人だけではなく、下手をすると、他人を助けようとする人も呑み込まれてしまう。世の中とは、そんなこともあるものだし、そこから、そんなには良くならない。確かに、為政者から、自助とか言われると腹も立つが。こんなコロナ禍の世界になってみると、国連などからは、未だに人権問題を言われることもある日本が、世界的に見ても、一番規制が緩かったりする。自由と人権社会の筈の欧米の先進諸国が、自由と人権を踏み躙るような国家的統制を繰り返さなければならなくなって、その齟齬による混乱に苦しんでいるように思える。一方、もともと全体主義体制の共産中国は、人権無視の弾圧的統制を思いのまま駆使して、かえって、世界で最大の勝ち組になっているかのようでさえある。人権とは、とか。自由は、とか。国家の有り様とか、社会の有り様とか。まず、自分の生き方や考え方から、考え直すことを、今、問われているように思える。