病気は、なんでも、かんでも、治せる、或いは、今は無理でも、必ず治せるようになるって考え方が、ありますよね。もちろん、未だに不治の病はありますから、緩和医療なんてのも、あるります。でも、ある程度、なんでもかんでも、ある程度でも、治そうと言う。そんな考え方が、現代の医学、科学には、主流で普通の考え方、なのだと思います。
宗教とか、スピリチュアル的な考え方の世界で、精神的な、まあ、救いの世界で、治そう、或いは、緩和しよう。そして、その中で、救いを求めよう、と言う考え方もあるようです。カルト宗教などを含めて、宗教では、信仰心の強さによって、或いは、お布施の金額などによるものかも知れないですけど。治ったことの奇跡の話なども、数多あります。
もっとも、そう言うことなどは、治ったこと、そうでなければ、死を昇天したなどして、死後の世界に救いを求められたとするようなこと。こころの言葉の、辻褄合わせとも言えるような。そんなことが、宗教と呼ばれるものには、元々普遍的な有り様にも、思えたりもします。
もちろん、自分は、緩くて浅いですけど、実証科学の信者ですから、科学的な医学のみを、普通に利用しています。まあ、保険医療ですね。でも、そんな科学的な医療の、なんでも治そうと言う姿勢に、或いは、その成果に、それなりに感嘆しつつも。だから❓って、思っちゃう、そんな自分がいます。
色々、思ったりするんですよね。病気に、罹るってなんなんだろうかなって。ひょっとすると、生きていること自体が、病気なんじゃ無いの❓とかって、思ってしまうんです。そんな自分が、います。
病気の反意語は、何なんでしょうか。健康と言うことでしょうかね。まあ、例えば、子どもの頃には、健康優良児なんて人がいて。一生、医学的に、その健康の範疇で死ぬなんて人も、いそうですよね。
でも、死ぬ瞬間に、健康なんてことは、あり得ないでしょう。確かに、不慮の事故のようなことで、亡くなる方もいるでしょう。いわゆる健康体のままで。でも、その事故の時点では、外的要因によってとは言え、身体的な健康は、破壊されて、結果、亡くなると言う事に、なるのですよね。
とにかく健康だ、と言う方が、致命的な病気にも罹らず亡くなる場合は、老衰と言う事になるのでしょうか。ただ、その場合も、それなりには、死因は特定出来るでしょうし、内臓の機能不全のような事になるのでしょう。その状態は、自然な老衰であったとしても、決して、医学的に言う健康体の範疇には、入らないでしょう。
要するに、人間は、生き永らえる為の、それなりの機能が、不全になるに至って、生命を失うのでしょうね。病気は、その生命の維持に必要な機能に取り憑き、機能を阻害していく事象とでも、言う事になるのでしょうか。すべてを、病気に罹っているとは、言えません。でも、遅かれ速かれで、必ず、健康と言われた状態は消費されて行き、死に至るのではないでしょうか。極論すれば、0歳で死ぬ乳児も、100歳迄、生き永らえて、亡くなる老人も。
ただ、元々、生命がなければ、病気もなかった。しかも、永遠の生命などはなくて、その有り様が、"病気"だと言うことではないのでしょうか。そんな風に、思ったりも、するのです。
更に、突き詰めるとすれば、健康と言われる状態は、必ず死に至る迄に、失われてしまいます。その過程に"病気"がある、いや、むしろ過程そのものが、"病気"と言うことではないのでしょうか。もう、生きる事は、"病気"を、生きる事。いやむしろ、生きる事が、病気そのものなんじゃないのかな、と。そこまで、いつもながら、取り止めもない自分の思考は、飛躍していきます。
「狂ったサル」と言う本が、あります。その本に著されている思想が、あります。近、現代の、過剰な人間主義。まあ、普通に、現代日本などで、ヒューマニズムと、外来語のまま、使われている思想。その西欧社会から生まれて、近、現代の世界を席巻した人間中心主義ですね。その人間がやりたい放題の野蛮な思想に対するアンチテーゼのような、本、思想、言葉だと思っています。
おまえ、人間のくせに、そんなこと言っておかしいだろう。人間だったら、人間中心主義になるのは、当たり前だろう。受け入れられないなら、いなくなれよ、と言われそうですが。ただ、人間中心主義的価値観からすれば、考え方も病気っぽい自分ですが。その自分だけを、病気とは思えずに、人類全体の有り様が、病気なのではないか、と思っているのです。
宇宙空間から見て、あんなにも美しく青く輝く水の星、地球。あの星を、汚しているのは、「狂ったサル」。そう、我々、人類なのです。
でも、その事実が、人類が、自然と調和し、共生する話に、収束することが、あるのでしょうか。自分には、あまり、そんな風に、明るくは思えないのです。
あの地球温暖化が、どうのこうのと騒いでいる北欧の海賊国家の子孫の女の子、いましたよね。前世代のおまえたちが、みんな悪いみたいに言う、ヒステリックな感じの。あの子に、地球温暖化は、良い事なんだよと、教えてあげたいです。理解しそうもありませんけどね。
地球温暖化は、「狂ったサル」の自分や貴方。自分や貴方を、ことごとく呑み込んで、綺麗さっぱりに、してくれる、ある"思し召し"の一つなのです。大洋上の島国がまず危ない。それは、可哀想でしょうけど。
大丈夫。やがて、みるみる、あらゆる大陸をも、呑み込んでくれますよ。「狂ったサル」を、襲って来ているのは、きっと水だけではありません。多分、コロナウイルスも、そうなのでしょう。
まあ、コロナウイルスは、大陸の世界最大のテロ国家、共産全体主義帝国の悪意の産物かも知れません。その成り立ちが、ウイルス兵器のようなものだったりして。
ただ、もし、そうだとして。あの頻繁で制御不能な変異は、開発者の手にも負えないのではないでしょうか。何となく、自分は、アーサー・クラーク原作で、スタンリー・キューブリック監督の不滅の映画作品「2001年宇宙の旅」のエンディングの部分を、想起してしまいます。人類の叡智と言うお笑い草の果実である、人工知能の制御不能な暴走。きっと、あの共産大帝国も、ノアの方舟になろうとして、世界に仕掛けた罠に、自ら嵌って、滅びるような気も、したりしています。
かつての新幹線事故で、すべてを無いものにしようとしたかの如く、遺体も残っていただろう車体ごと、埋めちゃった国ですからね。実は、生存者も、一緒に埋めちゃってたりりしてね。
この、コロナ禍でも、何となく、同じ手口を使ってそうですけどね。武漢は、もちろんですけど、北京周辺の街でも、アパートごと、隔離と言う名の、幽閉措置が取られたりしてました。だけど、あんまり埋めすぎると、最後は、あの大陸全土が、くまなく埋まっちゃったりして。笑えない実話なんじゃないかな、と。自分は、勝手に笑ってます。
自然。些細な自然。地球。些細な地球。宇宙。多分、些細な宇宙。それらすべてを、支配的に、かつ無原則に、無慈悲に、包含する「何か」の無意味、無意思に、示された「思し召し」。その摂理のうちの、極小的な、偶然と必然の間にある、理、ことわりの欠片のようなもの。
そんな風に飛躍した、自分の想念は、地球上に存在するあらゆる生きとし生けるものは、その存在そのものが"病気"なのだ、と思うのです。生きとし生けるものは、結局、地球環境に取り憑き、蝕み、消費しているだけなのです。それ自体が、地球が、取り憑かれた"病気"だと思っています。その繁殖、増殖は、地球の有り様を蝕むことでしかないのではないでしょうか。と、思ったりするのです。
例えば、生態系と言うものが、あります。生命全体が、その環境に馴染むべく、営為が、繰り広げられているようでは、あります。しかし、その、それぞれの生命体の営為は、お互いに、ぶつかり合い、克服しようとし合う微妙な均衡の中にあるようでも、あります。そして、その均衡の瞬間が、生態系なのでしょう。
でも、きっと、その生態系なるものは、固定的に存在するものではなく、常に、移りゆき、断続的に、破綻が訪れるものであったりするのではないかと、思うのです。例えば、かつて支配的な種であった恐竜が、絶滅してしまったようにです。
まあ、でも、現代の研究では、恐竜は、鳥類が正当な子孫とされていて、カラスのように、人類に、十分に対峙しうる種もいますから、絶滅したなどとは、到底言えないでしょうが。さすがに、生命は、なかなかの"疫病"ですね。しぶとい。
そして、きっとその"疫病"の一種の人類も、恐竜のように、暫く、生き残るかも知れません。ただ、このコロナ祭り、ワクチン祭り、それらの添え物として、僅かに彩る五輪祭りです。人類の滅びの前兆になったりして。
でも、そんなことが、起こったとして。例えば、カラスが、知的生命体として、支配する未来社会が、あったとして。しぶとい"疫病"の人類は、ゴミ置き場のゴミ袋を、食いちぎって、食い散らかして。カラス様に、追っ払われていたりして、とかね…
当地は、今は、雨になってきました。ただ、雨模様と言った感じですかね。さほどの雨には、なっていません。今度は、中国地方が、大変なことに、なっているようですね。本当に、最近は、豪雨災害も、酷くなる一方ですね。
そろそろ、自分も、流されちゃうんでしょうかね❓まあ、そんな時には、何とか、ノアの方舟に乗れるように、悪足掻きしたいと思います。でも、ワクチン打ってないんですよね。何か、予約も、取る気になれないんですよ。多分、自分には、ワクチンが、ノアの方舟には、思えないんだと思っています。
空港観測値の最低気温は、21.8℃です。昨日に、引き続いてかなり高めですね。ただ、昨日よりは、気温の上昇は、ありません。蒸し暑さは、ありません。今日も、引き続き、自宅で、引きこもり、自粛する予定です。