ああ、米国のアフリカ系って、こんな人たちなんだね。そりぁ、差別されるよね。被害者の女性と同じ、世界的には、このコロナ禍で、大概差別される側の自分は、人を差別出来るほどの強い立ち場ではないけど。身を守らなければいけないから、せいぜいそんな人たちは、よくよく注意して、関わらないように、しっかり区別して、気をつけないとね。
自分は、今、キング牧師は、とっても、尊敬する。崇高な人だ、とも。彼の有名な演説などは、日頃冷血な側面もある自分でも、何度聞いても、涙が堪えられない。また、明治維新から、敗戦を経た日本人の白人崇拝意識の、負の側面としての日本国内でのアフリカ系の方への差別の歴史も、知らない訳じゃない。
だけど、自分の上っ面の正義感の浅い判断かも知れないが、白人警官の暴力を受けたアフリカ系の青年たちの中に、挑発的な態度を取っているのでは、と思える場面があって、そんな若者と、アジア系の高齢女性を無慈悲に蹂躙する加害者が、結構、似たタイプに見えてしまったりする。きっと、それは、自分の浅い邪智なんだろうが。
でも、いつも、人は、差別される側だったとして、思わず、差別する側になっていたりするのかも知れない。だから、お互いを、差別と言う手垢に汚れた言葉ではなく、区別した方が良いと思っている。みんな、ひとりひとりは、それぞれに違う。間違いなく、同じじゃない。人類は、皆平等は、理念としてはありだろうが、でも、みんな違う。無闇に、平等を叫ぶのは簡単だが、みんな生まれた時から、それぞれで、別々だ。だから、お互いのその違いを、自分なりに、しっかりと理解する。それぞれの人を、一括りではなくて、区別して考える。その上で、お互いに、親しみ合えたり、協調出来る道を、探る。最悪、距離をとることが、お互いの最善の選択なことだって、時と場合によっては、あり得る。そんな風に、自分は、考えて、そんな風に、生きようと思っている。