「魂でもいいから、そばにいて」奥野修司
サブタイトルが、「3・11後の霊体験を聞く」。
遺族の悲しみに寄り添ったレポート。
P9
たとえばタクシーの運転手だ。
「古川駅から陸前高田の病院まで客を乗せたんだが着いたところには土台しか残っていなかった。お客さん!と振り返ったら誰も乗っていなかったんだよ」
(中略)
またある女子大生の話。
「閖上大橋のあたりに行くと、高校時代にいつもそこで待ち合わせていた親友が立っているんです。でも、その子はお母さんと一緒に津波で流されたはずなんです」
このような“恐怖体験”が語られる訳じゃないし、テーマでもない。
著者は次のように述べている。
石巻での話
P246
十字路で前の車が止まったまま動かないので降りてたずねると、道路をたくさんの人が渡っているから待ってくれという。しかし、誰もそんな人は歩いていなかった――。当時は語る方も怖がっていたし、聞いている僕も怖かった。でも、僕が求めていたのはそういう“恐怖体験”ではない。津波で逝った大切な人と、共に生きようとしている人びとの物語を記録することだった。
P246
津波という不可抗力によって、大切な人を突然喪うという悲劇は、生き遺った人の心の中に大きな悲しみの澱を生んだ。ここに紹介した「亡き人との再会」ともいえる物語は、その悲しみを受け入れるためではない。むしろ大切なあの人との別れを認めず、姿は消えたがその存在を感じつつ、忘れることを拒否する自分を受け入れるためのように思う。きっとそれは、大切なあの人が、この世から忘れ去られないためでもあるのだろう。
奥野修司さんという高名なノンフィクション作家が、震災の霊体験を書かれた、ってことに興味を持って読んだ。同じノンフィクション作家・工藤美代子さんの霊体験集とは趣旨が異なる。
「なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか」工藤美代子
「もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら」工藤美代子
(こちらは、純粋に怖い体験集、である)
【おまけの感想】
ところで、本書を読んでいて気になったのが、携帯にまつわる霊体験が多い、ってことだ。
電波と霊は親和性があるのだろうか?
【ネット上の紹介】
今まで語れなかった。でも、どうしても伝えたい。未曾有の大震災で最愛の人を喪った絶望の淵で…大宅賞作家が紡いだ、“奇跡と再会”の記録。
春の旅(『待っている』『どこにも行かないよ』(亀井繁さんの体験)
青い玉になった父母からの言葉(熊谷正恵さんの体験)
兄から届いたメール“ありがとう”(熊谷常子さんの体験)
『ママ、笑って』―おもちゃを動かす三歳児(遠藤由理さんの体験)
神社が好きだったわが子の跫音(永沼恵子さんの体験))
夏の旅(霊になっても『抱いてほしかった』(阿部秀子さんの体験)
枕元に立った夫からの言葉(赤坂佳代子さんの体験)
携帯電話に出た伯父の霊(吉田加代さんの体験)
『ほんとうはなあ、怖かったんだぁ』(阿部由紀さんの体験)
三歳の孫が伝える『イチゴが食べたい』(千葉みよ子さんの体験))
秋の旅(『ずっと逢いたかった』―ハグする夫(高橋美佳さんの体験)
『ただいま』―津波で逝った夫から(菅野佳代子さんの体験)
深夜にノックした父と死の「お知らせ」(三浦幸治さんと村上貞子さんの体験)
“一番列車が参ります”と響くアナウンス(今野伸一さんと奈保子さんの体験)
あらわれた母と霊になった愛猫(大友陽子さんの体験)
避難所に浮かび上がった「母の顔」(吾孫耕太郎さんの体験))