「印象派で「近代」を読む-光のモネから、ゴッホの闇へ」中野京子
読み返し。
P50
アカデミック絵画のヒエラルキーにおいて、風俗画は「歴史画(宗教画、神話を含む)」より格下と見做されていたのですから。(ちなみにアカデミーによる認定は、「歴史画」「風俗画」「肖像画」「静物画」「風景画」の順。組織人というものは何にでも順位をつけ、自らを権威付けたがるものらしい)
P22
「シャルパンティエ夫人と子どもたち」。
典型的なブルジョワの邸宅。右隅に東洋風の小物が飾られている。
真ん中の少女は、この家の長男。(当時の風習)
P104
オスマンによるパリ改造目的のひとつは、猛烈な勢いで地方から流入してきていた貧民イコール潜在的犯罪者の一掃だったので、何はともあれ中心部から彼らを追いはらう必要があった。それには地価を高騰させ、金持ちしか住めないようにすればよい。
P128
1780年の記録によると、パリに生まれた子ども2万1千人のうち、何と2万人が遠い田舎へ里子に出され、多くが早世しています。(「レ・ミゼラブル」のコゼットは、特殊な例でなかった)
P137・・・識字率
だいたい19世紀半ばのロンドンやパリで、2割以下だったと推定されています。(江戸では7、8割)
P139
1880年に女子の公教育が制度化されたとき、「わたしが一番好きなのは、字が読めなくて、赤ん坊の尻のしまつができる女だね」と言ったのはルノワールでした。
P180
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。
右端の女性は、ドゥミ・モンディーヌ(高級娼婦)であろう、と。
P190「エトワール」
左端に黒い燕尾服の紳士がいる。
踊り子のパトロンであろう、と。
バレエはオペラの添え物でしかなく、踊り子は売春婦と同義であり、プリマとして踊ったからといって実力があるとは限らず、単にパトロンの後押しによったのかもしれない、そういった歴史的事実です。
ドレフュス事件について書かれている箇所も面白かった。
(P72-75)
P108
日本には「清貧」という言葉があり、貧困をあまり恥と考えません。それについてはすでに戦国時代のイエズス会ヴァリニャーノ(イタリア人)が、ヴァチカンへこう報告しています。「貧困は日本人を罪悪感や卑しさへと駆り立ててない」。逆に言えば、西欧人は貧困によってそうしたものへ駆り立てられる、ないし駆り立てられると信じられている、ということになりましょう。
P116
ドガ「カフェにて」だけど、女性の前にあるのが、あの有名な「アブサン」。
二十世紀初頭に、製造販売禁止、ニガヨモギを主に、いろんな香草のエキスを混ぜたリキュールで、いわばアルコールと麻薬を混ぜたようなもの。強烈な幻覚作用があり、ゴッホとロートレックがアブサン中毒。(ロートレックは精神病院に入院し、ゴッホは左耳を切断した)
P117
ナナというのは、固有名詞であると同時に、日本語でいう(少し古い言い回しかもしれませんが)「かのじょ」、もっと露骨には「愛人」の意味でも使われる言葉です。
シルクハットの紳士の目の前で、下着姿のまま堂々とお出かけ用の化粧をしているのですから、これはもう見間違いようもなく「囲われた愛人」ですし、豪華な邸は彼によって与えられたもの。このナナは高級娼婦、いわゆる「ドゥミ・モンディーヌ」とわかります。
ドゥミ・モンディーヌというのは、ドゥミ・モンド(=半社交界)に生きる女性のことを指します。上流階級人士には、半分しか入れない。パトロンと一緒なら入れるが、ひとりだと出入り不能。
なぜ日本では印象派が人気なのか?
あとがきに書かれている・・・P210-211、P186
【ネット上の紹介】
十九世紀後半のフランスに起こった絵画運動で、現代日本でも絶大な人気を誇る「印象派」。“光”を駆使した斬新な描法が映し出したのは、未だ克服せざる「貧富差」による“闇”であった。マネ、モネ、ドガからゴッホまで、美術の革命家たちが描いた“近代”とは―。
[目次]
第1章 新たな絵画の誕生;第2章 「自然」というアトリエ;第3章 エミール・ゾラをめぐる群像;第4章 キャンバスに映されたパリ;第5章 都市が抱えた闇;第6章 ブルジョワの生きかた;第7章 性と孤独のあわい;第8章 印象派を見る眼