石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年8月1日も栃木県旧今市市の石仏巡りでした

2009年08月03日 | Weblog

 今回は、市街地の石仏巡りをしようと、旧今市市役所(現・日光市役所)駐車場へ車を置く。ザックでは大げさと考え、手提げバックにして手拓用具や三脚等の持参は省略。もっとも、そのために数カ所では手拓が欲しかったのに出来なかったりしたが…。
 さて、市役所から適当に道を選んで歩いて、数基の碑塔を記録しつつ、追分地蔵尊へ向かう。その途中で、危うく創価学会の寺へ入りそうになって苦笑いしたが…。そして追分地蔵尊へ着いて、今回は境内にある灯篭も含めて丁寧に記録を取る。その灯篭の一つに「庚申供養」があり、紀年銘も延宝四年とあったので、ここで急に中山さんを思い出す。この庚申灯篭は、中山さんが見ていない灯篭だったのだ。この前を、中山さんと何度も通りながら駐車場がない不便さでついに一度も立ち寄らなかったことを今さらながらに後悔する。あの、気に入った碑塔の前ではそこが地面であろうと平気で座り込み、じっくり構えて銘文を眺めるあの懐かしい姿を思い出してしまった。次回には、手託させていただく快諾を得て離れ、そこから更に歩いて如来寺さんが管理している玄樹院墓地へ入る。ここには祐天上人揮毫の名号塔が二基あり、そこに刻まれた石文がいささか長いが、ついでだからと気長に構えて書き写す。また墓地内には、特に沢山の家畜塔があり、それら全てを調査するには2時間以上かかりそうだが、いつかはやらなければならない作業と覚悟を決めて取りかかる。お陰で、終わったのは午後も1時半をとうに過ぎてしまっていた。まだまだ、周辺を彷徨きたかったが、まずは何あれ遅い昼食にしようと、車を止めた市役所まで重い足取りで戻る。
 今回の特別に遅い昼食は、少し日光寄りへ移動して杉並木公園で取ることにして車で向かう。駐車場内で食事を終え、一休みして時間を見れば午後も2時を遥かに過ぎていたのは言うまでもない。市街地へ戻る気力をなくし、これからは車をここへ置いて杉並木を北上した所にある大日堂へ向かう。今日は曇り空ながら以外と蒸し暑いが、この杉並木街道の中には思いの外に涼しい風が通り過ぎている。今度は掃除道具と三脚を抱えたが、手拓道具は残したままポクポク歩き大日堂へ着くや早速調査開始。寒念仏信仰の不動明王像やら十九夜塔に欠損箇所の多い石文不明の庚申塔を調べたりしたあとで、何やら気になる碑塔が1基残る。それは、銘文を読むのに摩耗と汚れが酷くて抵抗があり、どうしようかと悩んだが、「後で後悔しないように、目の前の気になる碑は読もうよ!」という、中山さんの声が聞こえたような気がしたので、その碑の前に中山式で座り込む。まずは水洗いを執拗に繰り返し、何とか文字が出てきた。今度はその文字の解読だが、手拓せずに読むのに抵抗を感じながら眺め尽くし、何となく全体の流れが判ってきた。どうも、これはこれまでだれも報告していない庚申塔のようである。そこで紀年銘を最初に解き明かそうと目を移動し、本気になって読めば「貞享四丁卯天 / 十月十五日」が読めた!。つまり、これは庚申当り日である。そこからは更に本気モードに入って、泥拓や判読を繰り返しているうちに「奉精誠意趣者庚申供養祈願所」と解読できた。その他にも石文はあるが、それ以上は手拓しないと無理。しかも下部が埋没しているので、スコップ持参でないとこれ以上の調査は無理と判断する。意外なところでの、私にとっては嬉しい江戸前期にかろうじて入る庚申塔の発掘である。何となく、中山さんとの意志が通じたみたいで嬉しくなる。
 さて、今夜はこの近くの大谷川岸辺で恒例の花火大会が開催される。そこで、渋滞に巻き込まれないためにも早めにこの周辺から逃げなければならないが、まだ時間は4時になったばかり。「この夏場に、4時で石仏巡りはないだろう!」と、一人で文句を言いつつ、その花火大会が催されるど真ん中にある、大谷川公園内の森の中にある瀬川地区庚申塚を訪ねる事にする。近道をし、公園の大駐車場へ車を止めるや手早く往復30分以内で調査を終了しようと、暗い森の中にあるというのに掃除用具もカメラ三脚も持たずに急いでその中へ駆け込む。急いで、昭和55年庚申塔を始めとした四基の庚申塔を調査して引き上げる。帰宅してから写真を確認してみると、やはり四基とも撮影し直しが必要なほど酷い写りだった。ヨシッ、こうなれば次回も今市市街地からやり直そうと、変なところでムキになる私だった。
※写真は、今市市瀬川・大谷川公園内にある高新津感昭和55年庚申塔です。
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