この前の日曜日に、ようやく手拓出来た墓碑銘をご紹介します。これは、栃木県鹿沼市楡木町の駅戸長を務めた上野麗三郎の墓碑二面に刻まれている碑文です。たぶん、茨城県水戸藩に関わる江戸幕府末期から明治にかけての、地元で活躍した人々に並々ならぬ関心を持っている方もいるかと、ここにご紹介します。私が紹介しない限り、まず以ってその存在を知ることは出来ないでしょうから‥。
なお蛇足ながら、撰文は弘道館で会沢正志斎や藤田東湖に師事した内藤耻叟(ないとうちそう)。その後、彼は藩内の論争に巻き込まれながらも明治36年に没するまで活躍する。また藤田健については言うまでも無いだろうが、彼の藤田東湖の次男で嗣子となる幼名藤田健二郎。その彼が、書を担っている。このように、この当時の水戸学に活躍した二人が栃木県の一般には名の知られていない人物の墓碑に名を見ること自体珍しいことである。そんな訳で、この二人について調査している人でも、今回のこの碑文の存在は知らないだろうと、ここに紹介する次第である。
但し、今回掲載した碑文は未完成です。墓碑の石苔と着いた手拓に悪戦苦闘しながらも読めない箇所が出てしまい、そのうちにまた調査して完全な内容に仕上げるつもりです。※もし、この二人の碑文所在場所などについて知りたい方や、この碑文に興味ある方がいましたら別ホームページ(栃木県の石碑で検索し鹿沼市の石碑からご覧ください)。