12月21日。日付を見て終い弘法の日だなと思う。毎月21日は弘法さんの縁日。12月21日が一年最後の21日だから終い弘法。昔、僕が使っていた手帳には12月21日は終い弘法と記されていた。今は小さい手帳なのでそれは記されてないけれど。
あと、今年残りの主だった縁日は12月28日終いの不動。あるサイトによるとこの日に門松を出すと良いとされている。そう思うと本当に今年も残り少なくなったなと思う。
金光さんは大安吉日と言ってその日を建前の日に選んでも雨が降ったらどこが大安なのかわからない。という趣旨のことを言っておられる。それはそのとおりで日付にこだわる必要はないけれど、僕はそれでもなぜかしめ飾りは28日に出すことが多い。
今日、ホームセンターに行ったら入り口のところで女性の店員の方が二人で松竹梅の門松を飾っておられた。といってもそれは商品見本という位置づけのものだけれど。しかし、鏡餅、しめかざりなど正月用のグッズを買っていく人の数も多くなったように思う。
何日か前にラジオのパーソナリティの方が梅宮辰夫さんのご病気のことを語っておられたのでちょっと興味を持てネットに出ていた梅宮さんの手記が載っているサイトを見た。そこにはこんなことが書かれていた。
‘’僕の場合はまず、「がんを踏み潰してやる」といった気負いはなるべく持たない。信頼のおける医者の説明に耳を傾けて覚悟を決めたら、すべてを委ねる。「石にしがみついてでもがんを成敗するぞ」なんて意気込むと、治療の途中で疲れてしまうからね。‘’
この梅宮さんの言葉を読んで、僕はそのとおりだなと思った。気負いすぎると疲れてしまう。
僕は人の体の状態というのは健康な状態と病気の状態とに二分されるというものではないと思う。体調には波がありその波がかなり落ち込んだ状況が便宜上、病気と呼ばれ、すべては体調の波という持続したした時の流れの中にある、と考えたほうが無理がないように思う。
体調の波が下がればそれを病気と考えてそこで養生する。そういうものであるように思う。
天理教の教祖、中山みきさんは、「なににてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから」という言葉を残しておられる。「病気というものはないで、それは心ちがいやで」という意味であろう。こういう言葉を見る時、おふでさきにやまいはないと書いてあるからないんや、とガチンコに考えると逆に無理があって疲れてしまうし、それはある意味現実離れしていると思う。
体調の波の中でそれが落ち込んだときが病気と呼ばれるのであってことさらに病気と力んで考えることはない。体調がまた上向きになるように養生努力すると考えたほうが無理がなく自然であるように思う。本当にそのように考えればやまいというものはないように思う。すべては連続した時の流れの中でのことなのだから。