大阪ではコロナの流行による緊急事態宣言が解除になって、昨日ちょっとだけ北のターミナルを歩いてみた。確かにある程度、人出が戻っている。もちろん平時の場合の半分程度という気がするけれど、、、。
緊急事態が解除になってさっそく街を歩いている人の姿を見るとなんとなく普段街を歩いている人とはちょっと異質であるような気がする。
うまく言えないのだけれど、緊急事態が解除になってすぐに街に出てくる人はやっぱり基本的に少々リスクがあっても街を歩きたいという気持ちが強い人なのだと思う。
街を歩いている人の姿を見てなんとなくそれを感じた。
コロナになって三密をさけるとかマスクをするとか守らなくてはならないルールが多くなった。それ自体コロナを防ぐのに一定の役割を果たしていることと思う。
しかし、今の世の中はコロナであるないにかかわらずルール、マニュアルが多い。みんなそれを守っているけれど、守ることにはそれなりのストレスがあって、マニュアルを守れない人やあるいはそもそも不備のあるマニュアルに対して腹を立てる人、イライラする人も増えていると思う。
例えば僕が昨日記入したマンションの資料に住所を書く欄には、「裏面に記載の当社の個人情報の保護方針に同意いただいた上で記入してください」と但書がしてあって、同意というところにチェック欄が設けてある。そして紙の裏面には個人情報保護法の条文そのままというような感じの文章が印刷されている。
そんな忙しいときに法律の条文のような文章にわざわざ目を通して理解した上で自分の住所を記入する人なんてほとんどいないと思う。そんなこといちいちしていたら時間がいくらあっても足りない。
個人情報の保護方針を紙に印刷する人も、読む人はほとんどいないと思っていても、個人情報保護法の適用範囲が広がった以上、これを省いては法律違反に問われる可能性がある。やっぱり省くわけにはいかないということで印刷していると思う。
一方それを読まずに記入する側は、これで個人情報保護の方針に同意したことになったから何かあっても文句は言えないなという気持ちになってしまう。
結局、みんなが決まりに縛られるというのはそういう心理的側面があると思う。
決まりを守りたくて守るというよりも、守らないと、あとで何を言われるかわからないから守らなければまずいと、、、。
マニュアルどおりにすることにのみ気持ちを奪われてしまって人間らしい心遣いがなくなってしまっている場合もある。
キリスト教の歴史では新約聖書の時代の位置づけというのは、律法、つまり宗教上の戒律を守ることにみんな意識を奪われてしまって、本質を見失っていたときに、イエス、そしてパウロという人が出て、大切なのは律法を守ることではない、信仰と愛をもつことが大切でそれこそが律法であるという主旨の教えを説いた。
今、私達はマニュアルを守らないことに後ろめたさを感じることが多いけれど、パウロも同様に律法からは罪の意識が生じるだけだという主旨のことを書いている。
つまり、律法を守れないという罪の意識が生じるだけだと。
今の時代は、当時の言葉で言えば律法、今の言葉で言えばマニュアル、マニュアルで固まってしまって、本当に私達の心が本来どういうことを求めているのか、それが見失われてしまっているように思える。
今はそういうことをもう一度問い直す時代なのではないかと、そんなふうに思うことが最近多くなった。