新聞のちょっとした囲み記事に自民党の二階幹事長が鼻だしマスクで批判を受けたからということで、自民党が党本部の会見場にアクリル板を設置したと書いてある。
そこで会見に臨む二階幹事長の写真を見ると今度はマスクをしていない。アクリル板を設置してマスクをしたら、より飛沫感染のリスクは下がるだろうに。
ちなみに二階さんの横に立っている野田聖子さんはお手本のようにきっちり鼻までマスクをしている。
二階さん年齢も80歳超えているし、鼻だしマスクをしていたのも、アクリル板を設置してマスクをしないのもひょっとしたら呼吸が苦しいのかも知れない。
本当にマスクの正しい着用法、アクリル板の設置、いろいろ決まり事が増えるほど、それを守らないと、批判にさらされる。
特に今はみんなネットで批判を拡散するので、よりいっそう、決まりを守らないと批判が拡散してしまう可能性も高くなる。
コロナの感染防止のためにみんな言っていると思うけれど、もう、みんな、マスクやアクリル板などで制約を受けることにしんどくなってきて、それを守らない人がいると余計にやり玉に上げたくなってくる気持ちが働きやすくなってきているようにも感じる。
パウロという人は新約聖書のローマびとへの手紙という書物の中で
“”律法によっては、罪の自覚しか生じない。 中略 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません“”
と書いている。
律法というのは、簡単に言えば、道徳上、宗教上の決まりのことである。もっと広義にとって一般化すれば、きまりごとと言ってもいいと思う。
コロナ感染予防のための決まり事が増えれば増えるほど、違反者も多くなるし、違反した人に対する怒りも多くなる。
そして、そうした怒りの応酬がおこなわれているうちに、感染予防の決まり事は、感染予防という本来の目的を失って、決まりのための決まりになってしまいがち、ということも往々にしてありがちだな思う。
もし、そうだとすれば、律法によっては罪の自覚しか生じない。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もない というパウロの指摘はとても的を射たものだなと思う。
まあ、いろんな意味で的を射たことが書いてあるから何千年も読み続けられているのだとは思うけれど、、、。