今日は多分雨はふらないだろうと思って過ごす日から随分遠ざかったなと思う。
雨が一日中降り続くわけではないけれど、ちょっと降ったり、一日のどこかで雨が降るという日がずっと続いている。
こんな夏めずらしいなと思う。(もう秋だけど)
岐阜県が、愛知県 三重県とともに東海三県で緊急事態宣言を国に要請するという内容のニュースが新聞に出ている。
こういうときになると、三重県って微妙に、関西にいてもニュースになるし、東海地方にいてもニュースになるなと思う。
それはさておき、また緊急事態宣言って、コロナにうんざりしているのか、緊急事態にうんざりしているのかわからなくなってくる。(個人の感想です)
店員の方がゴムの手袋をして接客しておられるお店がたまにあるけれど、意味があるのかどうかわからなくなってきた。
コンビニのビニールシートに、「感染予防のためシートをまくらないでください」と書いてあった。
「まくらないでください」 という書き方が岐阜だなと思う。
本当にビニールのシートも意味があるのかないのか、わからなくなってくる、、、。(個人の感想です)
コロナも目に見えない、神とか愛も目に見えない。
「神は愛である」というヨハネの定義に従えば、神も愛もおなじことかもしれない。というかその定義に従えば神も愛も同じことになる。それでなければ定義に従ったことにならない。
、、、と話が理屈っぽくなってしまった。
コロナも神も目に見えないという観点でひとくくりにすれば、目に見えないものにおびえるのは簡単でも、目に見えないものを信じることは意外と困難ということに気づく。
困難な道を狭き門と捉えれば、信じることは狭き門かもしれない。
アンドレ ジイドの小説に「狭き門」ってあったっけ。
内容は忘れてしまったけれど、イエスの「狭き門より入れ」という言葉がタイトルの由来になっているらしい。
せっかくなので、その部分をもっと範囲を広く取って引用すると次のようになる。
「狭き門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。
そして、そこから入って行く者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見い出す者は少ない」※マタイによる福音書より
天の愛を信じて、なるようになると思っていければいいなと願っている。
今日、母に、「ちょっと出かけるてくる」と言ったら
「あんたは、動けるからいいね」と言った。
靴をはいて外に出る時、そう言われれば、いくらお金があっても動けなかったらどこにもいけないんだなとしみじみと思った。
いちにち いちにち 無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。