ケンのブログ

日々の雑感や日記

コロナが収まらない

2020年08月08日 | 日記
大阪でコロナに感染していることが判明した人の数が一日の数としては最多を記録したとネットのニュースに出ている。

やはり心配だなと思う。

コロナももちろん心配だけれどそれによる社会の混乱ももっと心配。

感染が起きた店は名前の公表を正直にすると、お客がはなれてしまい、経営がたちゆかなる恐れがある。

それを恐れて感染を公表しないと感染の実態がわからずそれはそれで感染を防ぐ手立てを講じるのを妨げる原因になりうるというジレンマがあるらしい。

本当にそのとおりだなと思う。

なんとか辛抱していきたいものだと思う。

8月6日

2020年08月07日 | 日記
8月ももう6日かと思う。いつもの年なら広島で平和の記念式典があったとか報道される日だけれど今年はそういうのがあまりないなと思う。

また夏の甲子園の出場校も決まり甲子園で練習をする学校のことが報道されたり、対戦の抽選結果が出たりしていよいよ甲子園大会という気持ちになるのもこの時期のように思う。

来年にはもうコロナも収まってと思いたいところだけれど本当に日本だけでなく新聞の国際欄を見ていると日本よりももっと状況のひどい国がいくらでもあり、本当に来年の今頃はコロナが収まっているのかちょっとわからないなと思うこともある。

シンガポールのことを報じた記事にはコロナよりも人間のメンタルヘルスのほうがもっと心配ということが書かれていた。

本当にそうだなとそれを読んで僕は思った。

8月は終戦の月ということでやはりそこに意識が行くけれど太平洋戦争は1941年から1945年までの約4年間。あまり考えたくないことだけれど、まさかコロナは4年にもならないと思うけれどある程度長引くことは覚悟したほうかいいように思えてきた。

しかしコロナがまだ一年も続いていないのにこれだけうんざりする。戦争が4年も続いたときの人々はどんな気持ちだったのだろうとそんなことを想像してしまう。

やはり、平和に暮らせること、それが一番だなと思う。

中村元先生がお訳しになったブッダの真理のことばという本の「象」という章にこんな言葉が書いてある。

‘’戦場の象が、射られた矢にあたっても耐え忍ぶように、我々はひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に気質(たち)が悪いからである‘’

という言葉が書いてある。

本当にすぐに人をそしるという人間の性質はブッダの時代もそして今も変わらないんだなと思う。

そして、そしられたときにそれを忍ぶことの困難もブッダの時代も今も変わっていないのだと思う。

だからこうしてブッダの言葉が今も残っている。

できればこういうブッダのことばを胸に、人をそしらず、もし、そしられても矢にあたった象のようにそれを忍ぶことができれば本当にそれに越したことはないと思う。




もうニュースも半分デマになっているか

2020年08月06日 | 日記
大阪の最もディープな地域の一つにあるドラッグストアーでなぜかイソジンを買う人がいっぱいいた。

イソジンはもう売り切れですと店員の人が言っていた。

それでもあきらめられないらしく
「ヨードがええと聞いたんやけど、ヨードのうがい薬はないですか」とあるおじさんが店員の人に尋ねた。

「ヨード系のうがい薬はもうまったくありません。ただ、こちらにありますのはアズレンという成分のうがい薬でヨードと同じことなのでいいですよ」と店員の方が答えていた。

アズレンというのはアズレンスルホン酸ナトリウムを略した言い方と思う。

いつもパッケージに書いてある説明文を読んでから薬を買う習慣のある人なら誰でもわかることと思うけれど、ヨードとアズレンは違う。

ヨードは殺菌効果を期待してうがいをする場合に使うのが一般的と思う。

アズレンは炎症を抑える効果を期待してうがいをする場合に使うのが一般的と思う。

急にヨードのうがい薬を大勢買いに来るのもなんだか変だなと思ったけれど、アズレンとヨードと同じなのでこちらもいいですと店員の方が勧めるのもまたすごいことだなと思った。

さずがは大阪でもディープな地域だなと感心してしまった。

店員の方もお客を騙そうとしてそう言っていると言うよりも、もう人がうがい薬のコーナーに殺到して収集がつかないから何でもいいから人を整理するために苦し紛れにヨードもアズレンも同じと言っているようにも思える。

ヨードもアズレンもうがい薬や喉スプレーに使用されるという点は確かに同じだし、なので、同じと言って嘘とも決めつけられないし、、、。

思えば僕が小学校4年くらいの頃、たぶん1972年ころだと思うけれどオイルショックでいろんなお店からトイレットペーパーなど紙製品が消えたことがあった。

もういまのあのヨードのうがい薬に群がる人、そしてもう苦し紛れにヨード以外のうがい薬でも売ってしまおうという店員さん、社会がパニックになる一歩手前の様相を呈していると思う。

どうかせめてこの程度で収まってほしいと思う。

家に帰ってきてネットでニュースを調べてみると大阪の知事だか市長だかがヨードがコロナに効くと間違えられても仕方がないような発言をしたとかしなかったとか。

しかし、そんな大阪でもディープな地域の飲食店も再び店内はかなり空いている感じになり、中には閉店しているお店もある。

一時的な閉店ならいいのだけれど、本当にどうなってしまうのだろう。僕にとってはお気に入りのお店もあるのに、、、、。

何日か前にも京都でハッカ油を買おうと思ったら3件のドラッグストアで聞いてもない。

4件目にかなりたくさんカウンターの上にあったけれど、信じられないくらい値段が安い。

安すぎて逆に心配になるような値段だ。

カウンターで人がごった返しているのでパッケージの説明を読むこともできない。

とりあえず買って、あとで落ち着いてパッケージの説明を読んだ。

一般にドラッグストアで売っているハッカ油は食品添加物と表示してあり、実際に飲み物に一滴くらい入れて飲むのも使い方の一つとして紹介してある。

ところが僕がそこで買ったハッカ油は口には入れないこと、室内の換気をよくして使用すること、などふだん買っているハッカ油のパッケージの説明には書いてないことが書いてある。

いやあ、これはバッタもんをつかまされたかもと正直思った。

まあ、そこも京都ではちょっとディープな場所の商店街だったけれど、、、。

あと怪しいのが普通、品名 ハッカ油と書いてあるのに。
成分 ハッカ油 と書いてある。

いやあこれはバッタもんかもと思った。

それで地元のスーパーで店員の方にハッカ油はと聞いてみると、ハッカ油はここですと教えてくれた。

これもいつも僕が買っているハッカ油とはパッケージが違う。

「パッケージがいつもと違いますやん」と僕が言うと。「ああ、いつものパッケージのやつは今入ってこないので今はこれです」と店員の方はおっしゃった。
「ちょっとパッケージを読んでから買うかどうか決めてもいいですか」と僕が言ったら
「はい」と店員の方はおっしゃった。

それでパッケージを読むと、北見のハッカ油となっている。食品添加物とも書いてある。20cc入というのも普段僕が買うのと同じ量だ。
「これは大丈夫ですね」と言って僕はそのハッカ油を買った。

店員の方は会計のときに
「今、ハッカ油、生産がおっついてないらしいですよ。こういうご時世ですからね」と細い目をしてちょっと小声で僕におっしゃった。

ああ、僕が知らないだけで、ハッカ油がコロナにいいというニュースもどこかで流れたんだなと思った。

その大丈夫と思って買ったハッカ油。普段、僕が買うエッセンシャルオイルのようにボトルの穴から滴下するものではなく、ただビンに入っているだけだった。

そのことは確認しないで買ったのでこれは僕の責任、店員の方に文句は言えないと思い、次の日に100円ショップで小さいスポイトを買って事なきを得た。

しかし、こういうときに100円ショップはたよりになるなと思う。

ところで京都で買った安いハッカ油、ちょっと怪しいかもとは思うけれど、ディッシュに垂らして香りをかぐと、普段使っているハッカ油と香りの区別はほとんどつかない。

ちょっと食品添加物にするには難があるというだけで、ニセモノではないはずだ。それはドラッグストアで売っているものなので、、、。

それはドラッグストアの名誉のために書いておかないと。

ドラッグストアって営業するのにしかるべき許可のいる業種だから。


梅雨もあけて

2020年08月05日 | 日記
新聞に新潟県長岡の花火の写真が出ている。

第二次世界大戦の犠牲者を悼み、そしてコロナの災いが去るようにと願い観客のいない状態で3発の花火が打ち上げられたと書いてある。

観客のいない花火もそれはそれでわびがあってまたいいようにも感じられる。

長岡の花火と言って思い浮かべるのは山下清さんの切り絵だ。夜空に打ち上がられる花火とそこに集まった人の幻想的な風景が描かれていると記憶している。

僕は暑い季節の人混みがきらいで花火は子供の頃からそんなに見に行った記憶がない。

ところがどうも僕の親も暑いときの人混みは好きではないらしく花火は親に見に連れて行ってもらった記憶はなく、おじやおばに連れて行ってもらった記憶が残っている。

淀川の花火も大阪に来て30年以上になるのに一度も行ったことがないなと思う。

毎年浴衣を来た子が大勢電車に乗ったり駅を歩いていたりするのを見て、ああ、淀川の花火かと思う程度だ。

京都の街を歩くと今年はいろんなお祭りが自粛だけれど、それでも浴衣を来た子を多少は見かける。

そういうのを見ると夏だなと思う。

薄着のファッションを楽しむ人が増えて、雨もそんなに降らなくなって、天気図を見たら梅雨前線も見られない。

あれ、もう梅雨明けかなと思って、関西、梅雨明けとグーグルにキーワードを入れて検索したら関西では7月の末に梅雨明けしたと出ている。

いよいよ一年で一番暑いときになるなと思う。

しかし、本屋の雑誌のコーナーに並べられた月刊誌はもう9月号になっている。

春が短いように夏もまた本当に盛りの時は短いのかなと思う。

まあ、暑さやコロナはある程度長引くかなと思っているくらいのほうが辛抱するのにはよいと思うけれど。

新聞にはコロナに感染した人をバカ呼ばわりしたりする風潮がネットにはあるという主旨のことが書いてあるし、実際に自分でもそういうのをネットで目撃する。

感染するとは何事か、他人への迷惑は考えないのか、というような言葉をネットで見かけたこともある。

そういう言葉が多くなると怖いのはコロナか、コロナで人にいろいろ言われることなのか一体どちらなのかわからなくなってしまう。

やはり、人のことをコロナで悪く言うようなことは慎まなければならないと思う。

新聞におぼこい顔の人が出ているので、どんな人かと思ってみると○○大学教授42歳と出ている。

それは42歳なら大学教授で不思議ではない年齢だけれど今の僕の年齢から見ると顔がおぼこく見えてしまったりする。

それだけ自分が年をとっているんだなと思う。


大相撲の本場所も終わって

2020年08月02日 | 大相撲
大相撲7月場所は照ノ富士の優勝ということで幕を閉じた。

今場所は前半戦は全く見ていなくて中日から主な上位の取り組みだけ見始めた。朝乃山は星は上がっていたけれど取り口にちょっと鋭さを欠くような感じでどうかなと思っていた。

白鵬が休場してしまった。最近、休場が多いけれど場所の後半になって、しかもそこそこ星も上がっているのに休場するということはある意味、勇気と忍耐のいることのような気がする。やはり休むということはそれはそれで不安なことだと思うので、、、。大栄翔に破れた相撲が良く言えば慎重すぎ、悪く言えば思い切りにかけるような取り口だったのでとうかと思っていたら怪我を押してとっていたとのことだった。

僕が見た限りの数番は張りても封印して基本的にはまわしを取りに行く立ち会いだったけれど、白鵬の年齢になって立会の形を変えるというのも大変なことのように感じる。

すごいひとなのだなあと思う。

照ノ富士は優勝に絡んできてからの2,3番しか見なかったけれど、まわし、特に右前回しの引きつけは強烈だなと思う。あの大きい体で千代の富士なみの前回しの引きつけなのだからそれは相手力士にとっては脅威であると思う。

昨日、対戦した正代はそのまわし、特に右前回しの引きつけが強いことは十分にわかっていて、照ノ富士の右前回しが手にかかっても、もろ刺しで、休むことなく前に出た。そこに勝因があったわけだと思う。

北の富士さんが照ノ富士の優勝をたたえつつも、足が悪い状態でこれからも相撲をとらなければならないことを指摘しておられた。

本当に、上体の引きつけは強烈でも下半身がどうなのか、そこを相手につかれたらどうなるのか、それは来場所以降の見どころになるとおもう。

いずれにしてもあれだけ怪我をして序二段にまで落ちてまた上がってきて優勝って奇跡的なことではある。

大関から陥落した力士の優勝は魁傑以来ですとアナウンサーが言った時はそうだなあと思った。

魁傑が大関から陥落してそれでも優勝したときもずいぶん感動したなあと思いだした。感動という意味では今回の照ノ富士の優勝よりも魁傑のときの方が感動した。

なにしろあの頃は僕はまだ子供だったから。

昨日、僕のブログに、電車の冷房はどうなっているのか、そもそもコロナのときの電車の冷房について包括的に考えることのできる専門家はいるのか。いないのかもしれないという主旨のことを書いたつもりだ。

今日、新聞を読んでいたら、阪大の小林名誉教授を取材して要約した言葉としてこんなことが書いてあった。

「新型コロナの場合はどうでしょうか。感染防止という観点だけで言えば、濃厚接触を断つしかない。と専門家の考えは極めて明瞭です。しかし、いつまで自宅で巣ごもりを続けるべきなのか、感染リスクをある程度許容しながら経済活動を維持すべきなのか。政治と交わる境界領域で何を重視するのか、科学だけでは答えがたいトランスサイエンスの問題と言えます」

と書いてある。

まあ、読んでいてそのとおりと思えることが書いてあるなと感じる。

感染防止という観点だけで言えば濃厚接触を断つことという書き方がしてある。

この感染防止という観点だけで言えばという副詞的表現が科学の特色を言い当ててるようにも思う。

つまり、科学というのは観点が限られるものであるということ。

観点を限るからこそ、その限られた観点の中で証明された知識、つまり科学的知識を得ることができる。

しかし、科学が想定した観点を超えれば、もうその科学的知識の有用性はどこまで価値のあるものなのかは一概には判断できない。

最後には政治的決着が必要になる。

電車の冷房に関しても、窓を開けたほうが感染の可能性は低くなる、それはきっと確実性の高い事柄なのだと思う。

しかし、それで強烈な冷気に当てられてしゃっくりがとまらなくなったり、別の意味で体調を崩したり電車に乗ることに不快感を示す人がたくさん出てきたら、必ずしも窓をあけつつ空調の機械も運転するという考え一本槍ではいかなくなる。

そこが鉄道の会社にとってもしんどいところなのだと思う。

今、コロナ対策でなんか不自然だなあ、これでいいのだろうかと思う事柄は、科学的に言われていることを、あまりにも単純に実行してしまって包括的な考えにかけることから生じている場合がほとんどであるように思う。

そこから、どのように、より快適な方向を見つけていくか。

ときの流れというものももちろん必要だし、科学の知識一本槍ではどうにもならないということを悟ることが大切であるように思う。