山小屋を舞台にした連作短篇集である。
同じ笹本稜平の前作『未踏峰』では、
どこに勤めてもうまくいかない若者3人を、
北八ヶ岳にある山小屋の主人が雇い入れ、指導し、
ヒマラヤの未踏峰の山頂を目指す……というものであった。
今回の『春を背負って』(文藝春秋/2011年5月30日刊)では、山小屋の舞台を奥秩父に移している。
アルプスでもなく八ヶ岳でもなく、奥秩父というところに、この作品の持ち味がある。
梓小屋と名づけられたその小屋は、甲武信ヶ岳と国師ヶ岳を結ぶ稜線のほぼ中間から長野側に少し下った沢の源頭にあった。千曲川支流の梓川の谷の上部に位置することからつけられた名前らしい。
近くには二二○○メートル台の眺望に恵まれないピークがあるだけで、疲れてその先の小屋まで着けなかったり、天候の急変で停滞を余儀なくされた登山者がやむなく立ち寄る、いわば避難小屋に近い性格の小屋だった。(12頁~13頁)
小屋主は、長嶺亨(ながみね・とおる)。
大学院を卒業して、東京の電子機器メーカーに勤めていたが、
4年前に、梓小屋の主であった父が車の自損事故により64歳で亡くなったことにより、小屋を継いだ。
小屋を手伝っているのは、多田悟郎。
通称ゴロさん。
小屋の営業期間(ゴールデンウィーク前から11月下旬)は梓小屋で働いているが、
それ以外の期間はホームレスとして都会で生活している。
そのゴロさんの謎に包まれた過去を主題にしたのが、第1話「春を背負って」。
第2話「花泥棒」は、
父を亡くしたOLによる遭難騒ぎの話。
父の愛した奥秩父に咲くシャクナゲを一目見て死のうとやってきた自殺願望のある高沢美由紀。
彼女を捜し出し、小屋で介抱し、生きる気力を取り戻させる亨とゴロさん。
その後、美由紀もこの小屋で働くようになる。
第3話「野晒し」。
亨とゴロさんが、ガレた沢の源頭で、野晒しとなった白骨化した遭難者を発見する。
警察へ連絡したりして一段落した頃、小屋へ宿泊を予約していた84歳の男性が、夜になっても到着していないことが判明。
そして遭難騒ぎに……
第4話「小屋仕舞い」。
ゴロさんが脳梗塞で倒れる。
tPA(血栓溶解剤)療法には本人或いは家族の同意が必要なのだが、ゴロさんには家族がいない。
本人は、この療法を拒否。
亨は必死に説得するが、ゴロさんは拒絶する……
第5話「擬似好天」。
二つ玉低気圧による吹雪と積雪により、3人パーティが山で身動きがとれなくなる。
メンバーのなかの女性の夫が交通事故で意識不明の重体になっているとの連絡が入り、3人は好天になったのを理由に下山を決行しようとする。
擬似好天だからそこから動かないように説得されるが、夫の容態を心配する女性は、ひとり下山を開始し、行方不明となる……
第6話「荷揚げ日和」。
ゴールデンウィークが間近い日、小屋開きの準備をしていた亨とゴロさんは、
猫と小学校低学年くらいの少女を発見する。
なぜ、こんなところに、猫と少女がいるのか……
本書に帯に、次のようなキャッチコピーがある。
《奥秩父には、人生の避難小屋があるんだ。》
《疲れた心を慰める感動の山岳小説。》
言い得て妙。
命の器とも言うべき山の自然に包まれた山小屋には、
心に傷を負った人や、人生に疲れた人を、再生させる力があるに違いない。
山岳小説というと、これまで手に汗握るクライミング描写を売りにしたものが多かったが、このように山小屋を舞台にした山岳小説は稀だった。
しかも、アルプスや八ヶ岳ではなく、奥秩父の山小屋というのが何とも好もしい。
『還るべき場所』や『未踏峰』と同様、この作品にもアフォリズムがちりばめられているので、いくつか紹介してみる。
雨が降ろうが風が吹こうが、自分にあてがわれた人生を死ぬまで生きてみるしかない。(50頁)
日本人てのはなんでも右へ倣えだからな。客同士の会話でも、日本百名山のここへ登ったのあそこへ登ったのという話ばかりだ。観光地や温泉巡りの感覚で山へ来ちまうから、遭難や事故も絶えないわけだよ。(106頁)
つまりね、人生で大事なのは、山登りと同じで、自分の二本の足でどこまで歩けるか、自分自身に問うことなんじゃないのかね。自分の足で歩いた距離だけが本物の宝になるんだよ。だから人と競争する必要はないし、勝った負けたの結果から得られるものなんて、束の間の幻にすぎないわけだ。(118頁)
犬にも猫にも人間にもそれぞれ気に入った場所がある。(158頁)
自分というトンネルをいくら奥へ奥へと掘り続けても出口は決して見つからない。空気もない光もない世界から抜け出すには外へ向かうしかないんだよ。(129頁)
人間て、だれかのために生きようと思ったとき、本当に幸せになれるものなのかもしれないね。(300頁)
人生は一回こっきりなんだから、幸も不幸も味わい尽くさなきゃ損だ。(141頁)
心のなかに自分の宝物を持っている人は、周りからどう見られようと幸福なんだよ。(300頁)
この小説を読み終えると、無性に山小屋へ行きたくなった。
九州には山小屋が少ないし、
遠くに遠征したときくらいしか山小屋に泊まることはできないが、
思い出に残る山小屋はいくつかある。
上高地の横尾山荘は、ホテルかペンションのようだった。
一人ひとり、きれいな蒲団で寝られるのが何より嬉しかった。
お風呂にも入ることができた。
槍ヶ岳山荘には、アルバイトの外人さん(美しき女性)がいたのが印象に残っている。
留学生だったのだろうか、日本人スタッフに混じって、楽しそうに働いていた。
槍ヶ岳登頂後に皆で呑んだビールの味も忘れられない。
常念小屋では、雲間から見えた槍ヶ岳の美しい姿が忘れがたい。
1919年創業とのことで、2009年に行ったときは創業90年の記念の年。
記念品をもらったことを思い出す。
立山室堂山荘では、取り囲むように連なった立山三山、大日三山が美しかった。
それに、たくさん咲いていた高山植物。
同じ部屋になった単独行の登山者たちとの交流も楽しかった。
剱岳登頂の前に泊まった剣山荘は、
素晴らしいロケーションに恵まれた場所にあり、ワクワクした。
山荘の近くでクロユリを見ることができたのもの良き思い出だ。
そして、私が、これまで泊まった山小屋のなかで、
最も印象に残っているのは、大日小屋。
ここ大日小屋は、「ランプとギターの山小屋」と呼ばれている。
山小屋の主人・杉田健司さんは、ギター職人で、冬の間はギター工房「スギクラフト」でギター造りに専念するとか。
そのため、小屋のスタッフはみんな杉田さんのお弟子さん。
弟子入りの条件のひとつは、山小屋で働くことだそうだ。
仕事を終えたスタッフが、ギターを弾いてくれ、とても素敵な雰囲気。
そして何よりも私を魅了したのは、ここから見える剱岳の姿。
その、なんと美しかったことか!
いつの日か、また訪れたい山小屋である。
『春を背負って』を読んでいたら、いろんな山小屋を思い出して楽しかった。
今年の梅雨は、よく雨が降る。
山へ行けない日は、こういった山岳小説を読んで過ごすのも悪くないと思う。
あなたも、ぜひ……
※2014年6月14日公開予定の映画『春を背負って』の試写会に行ってきました。
レビューを書いていますので、コチラからご覧下さい。
同じ笹本稜平の前作『未踏峰』では、
どこに勤めてもうまくいかない若者3人を、
北八ヶ岳にある山小屋の主人が雇い入れ、指導し、
ヒマラヤの未踏峰の山頂を目指す……というものであった。
今回の『春を背負って』(文藝春秋/2011年5月30日刊)では、山小屋の舞台を奥秩父に移している。
アルプスでもなく八ヶ岳でもなく、奥秩父というところに、この作品の持ち味がある。
梓小屋と名づけられたその小屋は、甲武信ヶ岳と国師ヶ岳を結ぶ稜線のほぼ中間から長野側に少し下った沢の源頭にあった。千曲川支流の梓川の谷の上部に位置することからつけられた名前らしい。
近くには二二○○メートル台の眺望に恵まれないピークがあるだけで、疲れてその先の小屋まで着けなかったり、天候の急変で停滞を余儀なくされた登山者がやむなく立ち寄る、いわば避難小屋に近い性格の小屋だった。(12頁~13頁)
小屋主は、長嶺亨(ながみね・とおる)。
大学院を卒業して、東京の電子機器メーカーに勤めていたが、
4年前に、梓小屋の主であった父が車の自損事故により64歳で亡くなったことにより、小屋を継いだ。
小屋を手伝っているのは、多田悟郎。
通称ゴロさん。
小屋の営業期間(ゴールデンウィーク前から11月下旬)は梓小屋で働いているが、
それ以外の期間はホームレスとして都会で生活している。
そのゴロさんの謎に包まれた過去を主題にしたのが、第1話「春を背負って」。
第2話「花泥棒」は、
父を亡くしたOLによる遭難騒ぎの話。
父の愛した奥秩父に咲くシャクナゲを一目見て死のうとやってきた自殺願望のある高沢美由紀。
彼女を捜し出し、小屋で介抱し、生きる気力を取り戻させる亨とゴロさん。
その後、美由紀もこの小屋で働くようになる。
第3話「野晒し」。
亨とゴロさんが、ガレた沢の源頭で、野晒しとなった白骨化した遭難者を発見する。
警察へ連絡したりして一段落した頃、小屋へ宿泊を予約していた84歳の男性が、夜になっても到着していないことが判明。
そして遭難騒ぎに……
第4話「小屋仕舞い」。
ゴロさんが脳梗塞で倒れる。
tPA(血栓溶解剤)療法には本人或いは家族の同意が必要なのだが、ゴロさんには家族がいない。
本人は、この療法を拒否。
亨は必死に説得するが、ゴロさんは拒絶する……
第5話「擬似好天」。
二つ玉低気圧による吹雪と積雪により、3人パーティが山で身動きがとれなくなる。
メンバーのなかの女性の夫が交通事故で意識不明の重体になっているとの連絡が入り、3人は好天になったのを理由に下山を決行しようとする。
擬似好天だからそこから動かないように説得されるが、夫の容態を心配する女性は、ひとり下山を開始し、行方不明となる……
第6話「荷揚げ日和」。
ゴールデンウィークが間近い日、小屋開きの準備をしていた亨とゴロさんは、
猫と小学校低学年くらいの少女を発見する。
なぜ、こんなところに、猫と少女がいるのか……
本書に帯に、次のようなキャッチコピーがある。
《奥秩父には、人生の避難小屋があるんだ。》
《疲れた心を慰める感動の山岳小説。》
言い得て妙。
命の器とも言うべき山の自然に包まれた山小屋には、
心に傷を負った人や、人生に疲れた人を、再生させる力があるに違いない。
山岳小説というと、これまで手に汗握るクライミング描写を売りにしたものが多かったが、このように山小屋を舞台にした山岳小説は稀だった。
しかも、アルプスや八ヶ岳ではなく、奥秩父の山小屋というのが何とも好もしい。
『還るべき場所』や『未踏峰』と同様、この作品にもアフォリズムがちりばめられているので、いくつか紹介してみる。
雨が降ろうが風が吹こうが、自分にあてがわれた人生を死ぬまで生きてみるしかない。(50頁)
日本人てのはなんでも右へ倣えだからな。客同士の会話でも、日本百名山のここへ登ったのあそこへ登ったのという話ばかりだ。観光地や温泉巡りの感覚で山へ来ちまうから、遭難や事故も絶えないわけだよ。(106頁)
つまりね、人生で大事なのは、山登りと同じで、自分の二本の足でどこまで歩けるか、自分自身に問うことなんじゃないのかね。自分の足で歩いた距離だけが本物の宝になるんだよ。だから人と競争する必要はないし、勝った負けたの結果から得られるものなんて、束の間の幻にすぎないわけだ。(118頁)
犬にも猫にも人間にもそれぞれ気に入った場所がある。(158頁)
自分というトンネルをいくら奥へ奥へと掘り続けても出口は決して見つからない。空気もない光もない世界から抜け出すには外へ向かうしかないんだよ。(129頁)
人間て、だれかのために生きようと思ったとき、本当に幸せになれるものなのかもしれないね。(300頁)
人生は一回こっきりなんだから、幸も不幸も味わい尽くさなきゃ損だ。(141頁)
心のなかに自分の宝物を持っている人は、周りからどう見られようと幸福なんだよ。(300頁)
この小説を読み終えると、無性に山小屋へ行きたくなった。
九州には山小屋が少ないし、
遠くに遠征したときくらいしか山小屋に泊まることはできないが、
思い出に残る山小屋はいくつかある。
上高地の横尾山荘は、ホテルかペンションのようだった。
一人ひとり、きれいな蒲団で寝られるのが何より嬉しかった。
お風呂にも入ることができた。
槍ヶ岳山荘には、アルバイトの外人さん(美しき女性)がいたのが印象に残っている。
留学生だったのだろうか、日本人スタッフに混じって、楽しそうに働いていた。
槍ヶ岳登頂後に皆で呑んだビールの味も忘れられない。
常念小屋では、雲間から見えた槍ヶ岳の美しい姿が忘れがたい。
1919年創業とのことで、2009年に行ったときは創業90年の記念の年。
記念品をもらったことを思い出す。
立山室堂山荘では、取り囲むように連なった立山三山、大日三山が美しかった。
それに、たくさん咲いていた高山植物。
同じ部屋になった単独行の登山者たちとの交流も楽しかった。
剱岳登頂の前に泊まった剣山荘は、
素晴らしいロケーションに恵まれた場所にあり、ワクワクした。
山荘の近くでクロユリを見ることができたのもの良き思い出だ。
そして、私が、これまで泊まった山小屋のなかで、
最も印象に残っているのは、大日小屋。
ここ大日小屋は、「ランプとギターの山小屋」と呼ばれている。
山小屋の主人・杉田健司さんは、ギター職人で、冬の間はギター工房「スギクラフト」でギター造りに専念するとか。
そのため、小屋のスタッフはみんな杉田さんのお弟子さん。
弟子入りの条件のひとつは、山小屋で働くことだそうだ。
仕事を終えたスタッフが、ギターを弾いてくれ、とても素敵な雰囲気。
そして何よりも私を魅了したのは、ここから見える剱岳の姿。
その、なんと美しかったことか!
いつの日か、また訪れたい山小屋である。
『春を背負って』を読んでいたら、いろんな山小屋を思い出して楽しかった。
今年の梅雨は、よく雨が降る。
山へ行けない日は、こういった山岳小説を読んで過ごすのも悪くないと思う。
あなたも、ぜひ……
※2014年6月14日公開予定の映画『春を背負って』の試写会に行ってきました。
レビューを書いていますので、コチラからご覧下さい。