この半月ばかりの間に、私にとって重大な出来事がふたつあった。
ひとつは、父の死である。
認知症になって10年。
今年になって、体の衰弱が顕著になっていた。
すでに自分では食べることができなくなっていた。
「もうそれほど長くないと思います」
と、医者から言われていたので、覚悟はできていた。
亡くなる数日前に会いに行ったときは、
何を話しかけても、ただ、
「ありがとう」
を繰り返すばかりだった。
あんなに短気で、酒を呑んでは暴れていた父が、ただ、
「ありがとう」
の言葉しか発しなくなっていた。
そのことで、死期が近いことを悟った。
それから程なく父は逝った。
通夜、葬式、三日参り、初七日と、
兄弟、親類が集い、父を見送った。
5年ほど前に認知症になった母は、伴侶の死すら認識できず、
通夜の席でも、ただ、
「なにか食べさせて!」
を繰り返すばかりであった。
哀しくもあり、可笑しくもありで、
誰もが泣き笑いしていた。
もうひとつの私にとっての大きな出来事は、
二人目の孫の誕生である。
昨年3月に結婚した二女の妊娠が判明したのが、昨年の9月。
今年5月中旬の出産予定とのことで、3月半ばにはもう里帰りをしていた。
夫の仕事の関係で、東京に住んでいた二女は、
3月11日の東日本大震災に遭遇。
余震や放射能を心配した二女の夫が、予定よりも早くに里帰りをさせてくれたのだ。
出産は難産であったが、母子共に元気で、我が家は歓びに包まれた。
この短い期間に、私は、「生」と「死」をほぼ同時に体験した。
父の「死」と、二女の赤ちゃんの「誕生」が、なんだか「ひとつづき」であるように感じた。
宮本輝の小説『錦繍』の中の、
「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん」
という言葉が、何度も脳裏をよぎった。
「生命の不思議なからくり」を垣間見たような気がした。
バタバタと慌ただしい日々を送っていたので、ブログ更新がままならなかった。
5月22日に更新した以外、しばらくパソコンの前から遠ざかっていた。
にも関わらず、今日ブログの編集画面を見てみると、
多くの人たちが「一日の王」を訪問して下さっていた。
本当に有り難い。
アクセス数も、今年になってから1日400を超えることが多くなっている。
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)
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2011.05.28(土) 1059 PV 450 IP / 1588236ブログ
2011.05.27(金) 1162 PV 431 IP / 1587753ブログ
2011.05.26(木) 1078 PV 463 IP / 1587336ブログ
2011.05.25(水) 999 PV 417 IP / 1586960ブログ
2011.05.24(火) 1211 PV 432 IP / 1586343ブログ
2011.05.23(月) 1471 PV 496 IP / 1585824ブログ
2011.05.22(日) 1236 PV 451 IP / 1584896ブログ
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2011.05.22 ~ 2011.05.28 8216 PV 3140 IP 1911 位 / 1588236ブログ
現在、gooブログには159万近いブログがあるのだが、
アクセス数で、上位から10000位以内に入ると、
編集画面でアクセス数の順位が表示される。(「一日の王」は現在1911位)
現在、私のブログには、1週間で3000以上のアクセスがあり、
1ヶ月で12000人以上の訪問者がある。
こんな地味なブログなのに、全国から多くの人たちが訪問して下さる。
嬉しいし、励みになっている。
お会いしたことのない方々が多いと思うので、
ここであらためて感謝の言葉を述べたいと思う。
「いつも訪問して下さり、ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します」
ということで、今日は、ブログ更新致します。(笑)
本日は、映画レビュー。
昨日封切られたばかりの映画『マイ・バック・ページ』を紹介しようと思う。
原作は、私の大好きな川本三郎。
以前、このブログで川本三郎著『いまも、君を想う』を紹介したときにも述べたが、
私は、氏から大いに影響を受けている。
例えば……
皆さんは、私の映画レビューを読んで、
タクさんは何故「映画をみる」と書くとき、「観る」ではなく「見る」と表記するのだろう……と思ったことはないだろうか?(ないか~)
実は、私も昔は「映画を観る」と書いていたのだ。
だが、川本三郎の文章を読むと、「映画を見る」と表記してある。
「見る」ではなく、「観る」ではないだろうか……と思いつつ、
ある日、『漢字の用法』(武部良明/角川書店)という辞典で調べてみた。
この『漢字の用法』は、類語辞典の草分け的な存在で、
刊行された昭和51年当時、帯には作家の井上ひさしの推薦文があったほどの評判の書。
で、この辞書を読んで驚いた。
「映画をみる」は「映画を見る」であったのだ。
それ以来、私は氏と同じく、「映画を見る」と表記するようになった。
(ただし、『キネマ旬報』の執筆陣では現在でも「映画を観る」と表記する人の方が多いし、私としても「映画を観る」と表記しても別に間違いではないと思っている)
その他、私がこのブログで映画や本のレビューを書いている姿勢も、この川本三郎に学んだものだ。
政治的な発言は一切せず、文学でも映画でも批判的な文章は書かず、好きな作品だけを採り上げて紹介する……
怒ったことなど一度もないのではないかと思わせられるほど温厚な方という印象を持っていたし、いつも笑顔というような、優しい雰囲気を感じていたので、
『マイ・バック・ページ』(1988年河出書房新社刊。2010年平凡社より新装版)を読んだときには、正直驚いた。
そこには、熱すると暴力も辞さないというような若きジャーナリストの川本三郎がいたからだ。
目次を見ると、
『サン・ソレイユ』を見た日
69年夏
幸福に恵まれた女の子の死
死者たち
センス・オブ・ギルティ
取材拒否
町はときどき美しい
ベトナムから遠く離れて
現代歌情
逮捕までⅠ
逮捕までⅡ
逮捕そして解雇
とあり、前半は、それこそ60年代の思い出を記したものであり、
小学生、中学生として同時代を生きていた私としても、気持ちよく読めた。
ところが、
「逮捕までⅠ」「逮捕までⅡ」「逮捕そして解雇」
の章になると、重苦しい感じになり、読み進めるのが辛くなった。
そこには、川本三郎の、それまで封印してきた過去が語られていたからだ。
1972年1月、当時「朝日ジャーナル」の記者をしていた私は、前年夏に起きた朝霞自衛官刺殺事件を取材することになり、その過程で起きた「証憑湮滅」の行為により埼玉県警によって逮捕され、そして容疑事実を認めた段階で、朝日新聞社を馘首された。二十七歳のときだった。
この出来事がその後、長く私の生活、文章表現、あるいは性格や人間に対する態度にまで、重くのしかかることになった。映画のこと、文学のこと、あるいはマンガのこと、さまざまな評論を書いても、最後のところで、七二年の出来事が思い出されてしまい、そこでいつも言葉がつかえつまずいてしまった。屈託が心のどこかに沈んでしまっていて気が晴れることがなかった。人とつきあっていても心底言葉を通じ合わせることができなかった。客観的にいえば私もまたメランコリーにとらわれていたのだろう。
そんな状態からなんとかのがれようと何度か七二年の出来事を言葉にしようとした。言葉にし、あの出来事を私の身からはがしとろうとした。しかし何度試みてもうまくいかなかった。そうであればあるほど私は「私」のなかに閉じこもる他なかった。
そんな彼を、雑誌『SWITCH』の若き編集者の二人が励まし、川本三郎はあの「逮捕から解雇」までを、ついに書くに至ったのであった。
人が一人、死んでいる。しかも私はそれを阻止出来るかもしれない立場にあった。しかしそのためには、警察に通報しなければならない。無論、普通の事件ならためらうことなく通報する。ただ、「あの男」はいかがわしい人物ではあったが、それなりの「思想犯」だった。その場合、警察に通報したら私は「取材源の秘匿」というジャーナリストの基本、生命を失うことになる。
どうすればよかったのか。いまでもわからない。その意味では、四十年近く前の事件はいまでも現在形の問題になっている。
その現在性、そして、組織の中の個人という普遍的な問題に興味を持ったプロデューサー・根岸洋之が、映画化を思い立つ。
そして、2007年に、
山下敦弘(監督)と、向井康介(脚本)に持ちかけ、
具体化していった。
山下敦弘は、私の好きな映画『リンダ リンダ リンダ』や『天然コケッコー』の監督であるし、スタッフとなる向井康介(脚本)、それに近藤龍人(撮影)は、山下敦弘と大学時代からの仲間ということで、彼らは若いながらもこれまで数々の名作を生んできている。
原作者である川本三郎も、彼らの作品には好意を持っていたし、彼らが創ってくれるならと映画化を承諾したのではないかと思っている。
1969年。
理想に燃えながら新聞社で週刊誌記者として働く沢田雅巳(妻夫木聡)は、激動する“今”と葛藤しながら、日々活動家たちを追いかけていた。
1970年。
日本大学の教室では、哲学芸術思潮研究会と称するサークルの討論会が行われていた。
壇上で気炎をあげる片桐優(松山ケンイチ)と、その横で片桐を支持する柴山(中村蒼)。
忙しい沢田の束の間の楽しみは、週末にオールナイトで映画を見ることだった。
日曜日の誰もいないオフィスで、沢田は「週刊東都」の表紙モデルである高校生の倉田眞子(忽那汐里)に出会う。
無邪気な笑顔の奥に大人びた感性を秘める眞子に、沢田は興味を覚える。
1971年。
取材を続ける沢田は、先輩記者・中平武弘(古舘寛治)とともに梅山(片桐優の偽名)と名乗る男からの接触を受ける。
「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」
沢田は、その男に疑念を抱きながらも、不思議な親近感を覚え、魅かれていく。
やがて、「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く……。
(ストーリーはパンフレット等より引用し構成)
原作本を読んだ限りにおいては、これを映画化するのはかなり難しいのではないかと思っていた。
特に本の後半部分は、挫折と敗北の記録という感じで、
ただ暗いだけの作品になるのではないかと危惧していた。
映画を見終わって感じたのは、危惧は杞憂であったということ。
『キネマ旬報』(2011年6月上旬号)の
山下敦弘、向井康介、西川美和の鼎談で、
西川 けっこう脚色されてましたね。川本三郎さんの原作通り、ではなくて。
山下 原作から三分の二くらいエピソードをピックアップしたのかな。
西川 このシナリオの作り方だと、ほとんどオリジナルに近いですよ。
と語っているように、原作からの取捨選択がとてもうまくできた作品に思えた。
私としては、原作では、逮捕劇の部分より、
「幸福に恵まれた女の子の死」の章が気に入っていたので、
その部分も上手に取り入れられていて、好感が持てた。
今回の作品は、『リンダ リンダ リンダ』や『天然コケッコー』と違って、青春の終わりを描いた作品であったのだが、この眞子(忽那汐里)との部分だけは、かつての山下敦弘作品を彷彿とさせ、とても良かった。
沢田雅巳を演じた、妻夫木聡。
彼の優れている点は、個性が強すぎないこと。
何色にも染まる柔軟さがあり、
いったん染まると、その色に成りきる力強さも併せ持っている。
『悪人』のときの演技も良かったが、この作品でもそれに劣らない演技を見せている。
時に、ラストシーンは秀逸。
梅山(片桐優)を演じた、松山ケンイチ。
妻夫木聡とは逆に、個性を強く持った男優。
いかがわしさを持った、スカスカ感のある活動家を、その持ち前の個性と演技で魅せる。
来年はNHK大河ドラマの主役も控えており、今後どんな飛躍を見せてくれるか大いに楽しみ。
倉田眞子を演じた、忽那汐里。
『半分の月がのぼる空』も良かったが、
今回の作品でも彼女の存在そのものが輝いていた。
数年後に自らの命を絶つ少女の役だが、
それだけに、儚げで美しい。
忽那汐里が出演している現在公開中の映画『少女たちの羅針盤』も見たいのだが、
佐賀での公開予定がないのが残念。
東都新聞社・社会部部長を演じた、三浦友和。
出演シーンは短いが、その存在感は抜群。
若い頃は、ただの山口百恵の相手役という感じだったが、
近年の充実ぶりは目を瞠るものがある。
彼が出演しているだけで、その映画は「見る価値あり」となる。
その他、
赤邦軍隊員・安宅重子役の石橋杏奈、
赤邦軍隊員・柴山洋役の中村蒼、
東都ジャーナルデスク・飯島役のあがた森魚、
京大全共闘議長・前園勇役の山内圭哉、
週刊東都の先輩記者・中平武弘役の古舘寛治の演技が光っていた。
ラストのエンドロールの時に、
ボブ・ディランの「マイ・バック・ページズ」が、
真心ブラザーズ+奥田民夫のカバーバージョンとして流れるが、
これがとても良かった。
やや重く、暗いラストを、救っている。
エンドロールのときに主題歌が流れるのをあまり好まない私であるが、
この作品に限っては、本当に救われた気持ちになった。
何度でも聴きたい曲である。
『キネマ旬報』(2011年6月上旬号)に、
原作者の川本三郎は、
「ある青春の挫折」と題する文章を寄せている。
正直なところ、自分の原作の映画なので客観的に、冷静に論じることは出来ない。
しかし、これも率直に言えば、ラスト、妻夫木聡さんが演じる元週刊誌記者が涙する、長い長い場面は、自分の二十代、三十代のさまざまな想いがこみあげてきて不覚にも涙が止まらなかった。
と書き、そして、
個人的なことになるが、三年前に、三十五年連れ添った家内を亡くした。子供もいない。六十六歳のいま、この映画を作ってもらって本当にもう「いつ、死んでもいい」という気持ちである。
という言葉で締めくくっている。
そう原作者に言わしめたこの作品は、
私にとっても特別の作品になったように思う。
醒めている現代とは違う、何事にも熱かった時代の、
若者たちの挫折と敗北の物語。
「明るく、楽しい」物語ではないが、
いつまでも心に残る、普遍性を持った作品である。
ひとつは、父の死である。
認知症になって10年。
今年になって、体の衰弱が顕著になっていた。
すでに自分では食べることができなくなっていた。
「もうそれほど長くないと思います」
と、医者から言われていたので、覚悟はできていた。
亡くなる数日前に会いに行ったときは、
何を話しかけても、ただ、
「ありがとう」
を繰り返すばかりだった。
あんなに短気で、酒を呑んでは暴れていた父が、ただ、
「ありがとう」
の言葉しか発しなくなっていた。
そのことで、死期が近いことを悟った。
それから程なく父は逝った。
通夜、葬式、三日参り、初七日と、
兄弟、親類が集い、父を見送った。
5年ほど前に認知症になった母は、伴侶の死すら認識できず、
通夜の席でも、ただ、
「なにか食べさせて!」
を繰り返すばかりであった。
哀しくもあり、可笑しくもありで、
誰もが泣き笑いしていた。
もうひとつの私にとっての大きな出来事は、
二人目の孫の誕生である。
昨年3月に結婚した二女の妊娠が判明したのが、昨年の9月。
今年5月中旬の出産予定とのことで、3月半ばにはもう里帰りをしていた。
夫の仕事の関係で、東京に住んでいた二女は、
3月11日の東日本大震災に遭遇。
余震や放射能を心配した二女の夫が、予定よりも早くに里帰りをさせてくれたのだ。
出産は難産であったが、母子共に元気で、我が家は歓びに包まれた。
この短い期間に、私は、「生」と「死」をほぼ同時に体験した。
父の「死」と、二女の赤ちゃんの「誕生」が、なんだか「ひとつづき」であるように感じた。
宮本輝の小説『錦繍』の中の、
「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん」
という言葉が、何度も脳裏をよぎった。
「生命の不思議なからくり」を垣間見たような気がした。
バタバタと慌ただしい日々を送っていたので、ブログ更新がままならなかった。
5月22日に更新した以外、しばらくパソコンの前から遠ざかっていた。
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2011.05.22 ~ 2011.05.28 8216 PV 3140 IP 1911 位 / 1588236ブログ
現在、gooブログには159万近いブログがあるのだが、
アクセス数で、上位から10000位以内に入ると、
編集画面でアクセス数の順位が表示される。(「一日の王」は現在1911位)
現在、私のブログには、1週間で3000以上のアクセスがあり、
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「いつも訪問して下さり、ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します」
ということで、今日は、ブログ更新致します。(笑)
本日は、映画レビュー。
昨日封切られたばかりの映画『マイ・バック・ページ』を紹介しようと思う。
原作は、私の大好きな川本三郎。
以前、このブログで川本三郎著『いまも、君を想う』を紹介したときにも述べたが、
私は、氏から大いに影響を受けている。
例えば……
皆さんは、私の映画レビューを読んで、
タクさんは何故「映画をみる」と書くとき、「観る」ではなく「見る」と表記するのだろう……と思ったことはないだろうか?(ないか~)
実は、私も昔は「映画を観る」と書いていたのだ。
だが、川本三郎の文章を読むと、「映画を見る」と表記してある。
「見る」ではなく、「観る」ではないだろうか……と思いつつ、
ある日、『漢字の用法』(武部良明/角川書店)という辞典で調べてみた。
この『漢字の用法』は、類語辞典の草分け的な存在で、
刊行された昭和51年当時、帯には作家の井上ひさしの推薦文があったほどの評判の書。
で、この辞書を読んで驚いた。
「映画をみる」は「映画を見る」であったのだ。
それ以来、私は氏と同じく、「映画を見る」と表記するようになった。
(ただし、『キネマ旬報』の執筆陣では現在でも「映画を観る」と表記する人の方が多いし、私としても「映画を観る」と表記しても別に間違いではないと思っている)
その他、私がこのブログで映画や本のレビューを書いている姿勢も、この川本三郎に学んだものだ。
政治的な発言は一切せず、文学でも映画でも批判的な文章は書かず、好きな作品だけを採り上げて紹介する……
怒ったことなど一度もないのではないかと思わせられるほど温厚な方という印象を持っていたし、いつも笑顔というような、優しい雰囲気を感じていたので、
『マイ・バック・ページ』(1988年河出書房新社刊。2010年平凡社より新装版)を読んだときには、正直驚いた。
そこには、熱すると暴力も辞さないというような若きジャーナリストの川本三郎がいたからだ。
目次を見ると、
『サン・ソレイユ』を見た日
69年夏
幸福に恵まれた女の子の死
死者たち
センス・オブ・ギルティ
取材拒否
町はときどき美しい
ベトナムから遠く離れて
現代歌情
逮捕までⅠ
逮捕までⅡ
逮捕そして解雇
とあり、前半は、それこそ60年代の思い出を記したものであり、
小学生、中学生として同時代を生きていた私としても、気持ちよく読めた。
ところが、
「逮捕までⅠ」「逮捕までⅡ」「逮捕そして解雇」
の章になると、重苦しい感じになり、読み進めるのが辛くなった。
そこには、川本三郎の、それまで封印してきた過去が語られていたからだ。
1972年1月、当時「朝日ジャーナル」の記者をしていた私は、前年夏に起きた朝霞自衛官刺殺事件を取材することになり、その過程で起きた「証憑湮滅」の行為により埼玉県警によって逮捕され、そして容疑事実を認めた段階で、朝日新聞社を馘首された。二十七歳のときだった。
この出来事がその後、長く私の生活、文章表現、あるいは性格や人間に対する態度にまで、重くのしかかることになった。映画のこと、文学のこと、あるいはマンガのこと、さまざまな評論を書いても、最後のところで、七二年の出来事が思い出されてしまい、そこでいつも言葉がつかえつまずいてしまった。屈託が心のどこかに沈んでしまっていて気が晴れることがなかった。人とつきあっていても心底言葉を通じ合わせることができなかった。客観的にいえば私もまたメランコリーにとらわれていたのだろう。
そんな状態からなんとかのがれようと何度か七二年の出来事を言葉にしようとした。言葉にし、あの出来事を私の身からはがしとろうとした。しかし何度試みてもうまくいかなかった。そうであればあるほど私は「私」のなかに閉じこもる他なかった。
そんな彼を、雑誌『SWITCH』の若き編集者の二人が励まし、川本三郎はあの「逮捕から解雇」までを、ついに書くに至ったのであった。
人が一人、死んでいる。しかも私はそれを阻止出来るかもしれない立場にあった。しかしそのためには、警察に通報しなければならない。無論、普通の事件ならためらうことなく通報する。ただ、「あの男」はいかがわしい人物ではあったが、それなりの「思想犯」だった。その場合、警察に通報したら私は「取材源の秘匿」というジャーナリストの基本、生命を失うことになる。
どうすればよかったのか。いまでもわからない。その意味では、四十年近く前の事件はいまでも現在形の問題になっている。
その現在性、そして、組織の中の個人という普遍的な問題に興味を持ったプロデューサー・根岸洋之が、映画化を思い立つ。
そして、2007年に、
山下敦弘(監督)と、向井康介(脚本)に持ちかけ、
具体化していった。
山下敦弘は、私の好きな映画『リンダ リンダ リンダ』や『天然コケッコー』の監督であるし、スタッフとなる向井康介(脚本)、それに近藤龍人(撮影)は、山下敦弘と大学時代からの仲間ということで、彼らは若いながらもこれまで数々の名作を生んできている。
原作者である川本三郎も、彼らの作品には好意を持っていたし、彼らが創ってくれるならと映画化を承諾したのではないかと思っている。
1969年。
理想に燃えながら新聞社で週刊誌記者として働く沢田雅巳(妻夫木聡)は、激動する“今”と葛藤しながら、日々活動家たちを追いかけていた。
1970年。
日本大学の教室では、哲学芸術思潮研究会と称するサークルの討論会が行われていた。
壇上で気炎をあげる片桐優(松山ケンイチ)と、その横で片桐を支持する柴山(中村蒼)。
忙しい沢田の束の間の楽しみは、週末にオールナイトで映画を見ることだった。
日曜日の誰もいないオフィスで、沢田は「週刊東都」の表紙モデルである高校生の倉田眞子(忽那汐里)に出会う。
無邪気な笑顔の奥に大人びた感性を秘める眞子に、沢田は興味を覚える。
1971年。
取材を続ける沢田は、先輩記者・中平武弘(古舘寛治)とともに梅山(片桐優の偽名)と名乗る男からの接触を受ける。
「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」
沢田は、その男に疑念を抱きながらも、不思議な親近感を覚え、魅かれていく。
やがて、「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く……。
(ストーリーはパンフレット等より引用し構成)
原作本を読んだ限りにおいては、これを映画化するのはかなり難しいのではないかと思っていた。
特に本の後半部分は、挫折と敗北の記録という感じで、
ただ暗いだけの作品になるのではないかと危惧していた。
映画を見終わって感じたのは、危惧は杞憂であったということ。
『キネマ旬報』(2011年6月上旬号)の
山下敦弘、向井康介、西川美和の鼎談で、
西川 けっこう脚色されてましたね。川本三郎さんの原作通り、ではなくて。
山下 原作から三分の二くらいエピソードをピックアップしたのかな。
西川 このシナリオの作り方だと、ほとんどオリジナルに近いですよ。
と語っているように、原作からの取捨選択がとてもうまくできた作品に思えた。
私としては、原作では、逮捕劇の部分より、
「幸福に恵まれた女の子の死」の章が気に入っていたので、
その部分も上手に取り入れられていて、好感が持てた。
今回の作品は、『リンダ リンダ リンダ』や『天然コケッコー』と違って、青春の終わりを描いた作品であったのだが、この眞子(忽那汐里)との部分だけは、かつての山下敦弘作品を彷彿とさせ、とても良かった。
沢田雅巳を演じた、妻夫木聡。
彼の優れている点は、個性が強すぎないこと。
何色にも染まる柔軟さがあり、
いったん染まると、その色に成りきる力強さも併せ持っている。
『悪人』のときの演技も良かったが、この作品でもそれに劣らない演技を見せている。
時に、ラストシーンは秀逸。
梅山(片桐優)を演じた、松山ケンイチ。
妻夫木聡とは逆に、個性を強く持った男優。
いかがわしさを持った、スカスカ感のある活動家を、その持ち前の個性と演技で魅せる。
来年はNHK大河ドラマの主役も控えており、今後どんな飛躍を見せてくれるか大いに楽しみ。
倉田眞子を演じた、忽那汐里。
『半分の月がのぼる空』も良かったが、
今回の作品でも彼女の存在そのものが輝いていた。
数年後に自らの命を絶つ少女の役だが、
それだけに、儚げで美しい。
忽那汐里が出演している現在公開中の映画『少女たちの羅針盤』も見たいのだが、
佐賀での公開予定がないのが残念。
東都新聞社・社会部部長を演じた、三浦友和。
出演シーンは短いが、その存在感は抜群。
若い頃は、ただの山口百恵の相手役という感じだったが、
近年の充実ぶりは目を瞠るものがある。
彼が出演しているだけで、その映画は「見る価値あり」となる。
その他、
赤邦軍隊員・安宅重子役の石橋杏奈、
赤邦軍隊員・柴山洋役の中村蒼、
東都ジャーナルデスク・飯島役のあがた森魚、
京大全共闘議長・前園勇役の山内圭哉、
週刊東都の先輩記者・中平武弘役の古舘寛治の演技が光っていた。
ラストのエンドロールの時に、
ボブ・ディランの「マイ・バック・ページズ」が、
真心ブラザーズ+奥田民夫のカバーバージョンとして流れるが、
これがとても良かった。
やや重く、暗いラストを、救っている。
エンドロールのときに主題歌が流れるのをあまり好まない私であるが、
この作品に限っては、本当に救われた気持ちになった。
何度でも聴きたい曲である。
『キネマ旬報』(2011年6月上旬号)に、
原作者の川本三郎は、
「ある青春の挫折」と題する文章を寄せている。
正直なところ、自分の原作の映画なので客観的に、冷静に論じることは出来ない。
しかし、これも率直に言えば、ラスト、妻夫木聡さんが演じる元週刊誌記者が涙する、長い長い場面は、自分の二十代、三十代のさまざまな想いがこみあげてきて不覚にも涙が止まらなかった。
と書き、そして、
個人的なことになるが、三年前に、三十五年連れ添った家内を亡くした。子供もいない。六十六歳のいま、この映画を作ってもらって本当にもう「いつ、死んでもいい」という気持ちである。
という言葉で締めくくっている。
そう原作者に言わしめたこの作品は、
私にとっても特別の作品になったように思う。
醒めている現代とは違う、何事にも熱かった時代の、
若者たちの挫折と敗北の物語。
「明るく、楽しい」物語ではないが、
いつまでも心に残る、普遍性を持った作品である。