一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

雨の作礼山 ……山という命の器のなかで、生かされている私を感じた……

2011年06月16日 | 作礼山
梅雨、真っ只中である。
本当によく降る。
今日は、朝から用事があったが、午後に2時間ほど時間ができた。
で、近くの山に遊びに行った。
「えっ、こんなに降ってるのに行くの?」
と、二女が驚いていた。
それほどの雨であった。
だが、行くのだ。(笑)

徒歩日本縦断の旅をしたとき、北海道では雨に祟られた。
北海道を歩いていた約1ヶ月の間、私はずっと雨に濡れながら歩いていた。
なかでも石狩平野を歩いた日は凄かった。
朝から晩まで、休みなく雨は降り続いた。
それこそ「バケツをひっくり返したような雨」が一日中続いたのだ。
ゴアテックスの雨具も登山靴も何の役にも立たなかった。
早朝から歩き始め、私はその日、60kmほど歩いた。
ほとんど休憩も取らず、ひたすら歩き続けた。
激しい雨に打たれながら、まるで修行僧のように……
何台かの車が止まり、乗るように諭された。
「歩き旅をしているのです」
その都度、私はそう答え、乗車を断った。
ずぶ濡れの私が乗車を断ると、
「なに馬鹿なことを言ってるの。早く乗りなさい!」
と怒り出す人もいて、困った。
歩き始めた頃は、雨の日に歩くのはイヤだった。
だが、雨だからと歩かなければ一歩も前に進まない。
最初は仕方なく歩いていた。
だが、次第に、雨の日に歩くことが苦痛ではなくなっていった。
そして、晴れた日よりも雨の日の方が、距離が稼げるようになった。
雨の日の方が、集中して歩けるのだ。
その事に気づいてからは、雨の日に歩くことが快感になっていった。
雨の日に歩くことが楽しくなった。
雨の日は、何か大いなるものに抱かれているような心地よさがあった。

作礼山は、ヤマボウシがたくさん咲いていた。
山のあちこちに白いかたまりが見える。


作礼山はヤマボウシの山であった。


ヤマボウシを見に遠くまで出かける必要などないのだ。


大雨で、至る処に滝ができていた。


森の緑が美しい。


当然のことながら、こんな日に山に登っているのは私ひとり。


足許の花だけが、そのことを知っている。


池のほとりに佇む。


雨がさらに激しく降り出す。


モウセンゴケは、大喜びをしている。


「ねっ」


満開のヤマツツジが美しい。


体が緑に溶け込んでいく。


山という命の器のなかで、生かされている私を感じた。

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