「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「武士道の言葉」その42 敗戦の責任を負い自決した将兵 その2

2016-05-11 11:29:03 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第四十二回 敗戦の責任を負い自決した将兵 その2(『祖国と青年』28年1月号掲載)

日本人を慕って自決したインドネシア青年に殉じた軍人の情愛

カリムが可哀そうなので一緒に逝きます。 (陸軍憲兵曹長 上遠野勇吉)

 昭和二十年八月二十八日、ジャワ駐屯第十六憲兵隊の上遠野勇吉陸軍曹長(二十八歳・福島県出身)は、憲兵補ラデン・アブドル・カリムの墓前で拳銃自決した。鉛筆の走り書きの遺書には「皆様、大変お世話になりました。カリムが可哀そうなので一緒に逝きます。死体はカリムのそばに埋めて下さい」とあった。

 敗戦に伴い、現地で日本軍に協力していたインドネシア憲兵補達は除隊となった。事情を説明し、家を買い与えるなどそれぞれの身の振り方を決めて、八月二十四日に除隊式が行われた。皆から弟の様に可愛がられていたカリムは、マドラ貴族出身の二十歳、日本に連れて行って欲しいと懇願していた。だが、それは叶わなかった。二十五日朝、カリムは憲兵隊に行き憲兵補の服装のまま自決してしまった。ワイシャツに「大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」と日本語で記し、マレー語で次の遺書が残されていた。

「私はインドネシア独立と日本戦勝の為、またマドラ防衛の為、決死の覚悟で日本軍と共に闘って来ました。が、日本軍は今帰国しようとしています。私は一緒に日本へ行きたいのですが、許されません。私は悲しくてなりません。私は日本軍の指導に対し全インドネシア青年を代表し、血を捧げて御礼申し上げます。大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」

 上遠野曹長は、愛すべき「弟」の死に殉じたのである。「人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん」(魏徴)という言葉があるが、当時の日本人には「意気に感じる」優しさがあり、生命を擲つ勇気と行動力があった。大東亜戦争時の日本人は、強くて優しかった。その事は、アジア各地での現地人の協力の姿が示している。大日本帝国に身を捧げた現地青年に殉じた上遠野曹長、日本とインドネシアの絆の実証として永遠に語り継いで行きたい。






敵に「武器」を渡す屈辱

武人の節を穢し 誠に申訳なし (海軍大尉 小山悌二)

 「日本刀は武士の魂」と言う様に、武人にとっての武器は、戦いを遂行する「魂」にも等しかった。

終戦後、ヤップ島警備隊の小山悌二海軍大尉(二十二歳・長野県出身)は、武器弾薬の米側への引き渡し作業の責任者として率先垂範、九月二十四日、作業終了を見届けた後、翌二十五日午前四時頃士官寝室にて軍服着用のまま宮城に向って正坐し、日本刀を以て自決した。遺書には「武人の節を穢し 誠に申訳なし」とのみあった。

自刃時に使用した日本刀は、父親が学生時代に柔道大会優勝の際に特別賞として貰った慶長新刀常陸守藤原寿命を軍刀として仕上げた名刀で、海軍兵学校最終学年時の十七年夏の帰省時に餞として贈られたものだった。小山大尉は十八年正月に「今年の覚悟 卒業と共に第一線に立つべき意気込みにてまず学業に専念せん 一日一刻を全精神を集中すること 明朗快活 努力 人を正面より見ること 団結協力 臍の力」と「自啓録」に記している。大尉は強き意志の人であった。

 九月十八日未明、済州島漢拏山谷口隊陣地では、野戦重砲十五連隊第三中隊長の谷口章陸軍大尉(二十二歳・滋賀県出身)が自決した。当日は大尉の預かる十五榴弾砲四門とその附属兵器とを米軍に引き渡す日だった。その六日前、谷口大尉は同期生の石橋大尉に「祖国は亡びた。祖国と運命を共にするのが、市ヶ谷台の精神だ。皇軍将校はこの際、一死以て天皇陛下にお詫び申上げるべきだ。また、大砲引き渡しも決定した今日、砲兵中隊長は火砲と運命を共にするのが皇軍砲兵の伝統精神に生きる道と思う。従って自分は、すでに散華した多数同期生の後を追う積りだ。」と語っていたと言う。

 武器引き渡しに際し、事務上の食い違いから責任を取って自決した将校も居た。第二十六野戦航空修理廠の金原重夫陸軍少尉(三十二歳・静岡県出身)である。金原少尉は漢口で武器引き渡し業務を担当していた。だが、数量に意外な相違が生じ折衝は難航、部隊は苦境に立たされた。その時、消耗品出納責任者であった少尉が、一切は自分の責任であるとして、九月二十一日午後八時に天皇陛下万歳と叫びつつ拳銃で自決した。この事があってから中国側の態度は一変し、移譲は円滑に進行したという。正に、金原少尉の生命を捧げた至誠が敵兵をも感動せしめ、部隊を救ったのである。






夫婦・家族で大日本帝国に殉じた人々

我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり (海軍大尉 長瀬 武)

 『世紀の自決』(芙蓉書房)の第二部には、夫婦、更には家族で、大日本帝国の終焉に殉じた十二夫妻の事が記されている。明治天皇に殉じた乃木将軍夫妻の如く、夫の殉国の決意を妻も受容し、更には自らの意志で同行を決意している。

 終戦時、佐世保軍需部に勤務していた長瀬武海軍大尉(三十歳・石川県出身)は外志子夫人と共に、八月二十一日午前零時、佐世保前畑火薬庫裏の丘上にて自決した。大尉は海軍の正装、夫人はモンペ姿だった。共にポケットの中に日の丸の旗(外志子夫人のお母様が結婚式の際に与えられたもの)が入れてあった。

長瀬大尉は自決当日母方の伯母に次の遺書を送っている。

「有難き陛下の大御心、一点の疑もなし、涙もて拝す、余りにも大君の恵多く幸福すぎし余の三十年、我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり、妻の一徹亦固きものあり。僅か二年の余の教育による妻の決意如何ともなし難し、御厚情を深謝す」

 同日、外志子夫人は母鹿谷初子氏宛に遺書を発送している。

「母上様、いよいよ最後の時が参りました。大詔を奉戴いたしまして天皇陛下の有難き御言葉本当にもったいなくて身のおきどころもございません。でも私達は最後までもっともっと頑張りたかったとそれのみです。舞鶴にて御別れ致しましたのが最後でございました。私の決心どおり致します。佐世保にも敵が参ります。上陸致しましてからはどんな目にあわされるか判りません。貞操をやかましく言われ教育されて参りました私にはどうしても耐えてゆかれません。これが私の思いすごしでございましたらどんなに嬉しいでしょう。私は只それのみ念じて行きます。主人の身も当然覚悟致しております。私にとりまして、どうして耐えてゆかれましょう。(中略)今まで幸福に暮して参りまして私はほんとに幸福だったと喜んでおります。嫁ぎましてから二年間も本当に幸福に暮しました。今は決心どおり身を処しましても私は幸福な人間です。母上様何とぞ御安心下さいませ。気持は落ちついて安らかな気持でおります。母上様も何とぞ御体大切に遊ばしまして国体護持の為頑張って下さいませ」

外志子夫人はミス金沢と呼ばれた程の麗人だったと言う。身も心も美しき大和撫子の決意の自決だった。






貞操を守る為に集団自決した従軍看護婦達

私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。 (新京 第八陸軍病院 陸軍看護婦二十二名)

 昭和二十一年六月二十一日朝、満州・新京(長春)第八陸軍病院で、監督看護婦井上鶴美氏(二十六歳)以下二十二名の看護婦が青酸カリを飲んで自決した。

 当時、新京はソ連軍の占領下にあったが、三十四名の日本人従軍看護婦達には新京第八病院での勤務が命じられていた。ところが、二十一年春、城子溝にあるソ連陸軍病院の第二赤軍救護所から、三名の看護婦の応援要請命令が来た為、三名を選抜して派遣。その後も追加要請があり、十一名が送られた。

更に四回目の申し入れがあり、対応を協議していた六月十九日夜、最初に派遣した大島はなえ看護婦が瀕死の重傷で戻り「私たちは、病院の仕事はしないで毎晩毎晩ソ連将校のなぐさみものにされているのです。否と言えば殺されてしまうのです。殺されても構わないが、次々と同僚の人たちが応援を名目に、やって来るのを見て、何とかして知らせなければ、死んでも死にきれないと考えて脱走して来たのです。」と述べた。そして、「婦長さん!もうあとから人を送ってはいけません。お願いします」との言葉を最後に息を引き取った。

翌日曜日に大島看護婦を土葬し、その夜、残って居た看護婦二十二名は自ら死を選んだ。満州赤十字看護婦の制服制帽を着用して、胸のあたりで両手を合わせて合掌をし、脚は紐できちんと縛られていた。遺書には次の様に記されていた。「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、ここの満州の土にして下さい。」と。続けて全員の手書きで名前が記されていた。汚れ物は総てボイラー室で焼却してひとつも残されて居なかった。日本女性の身だしなみだった。

 敗戦に伴い、国家の庇護が失われた時、最大の悲劇が襲うのは女性達である。当時、福岡には二日市保養所という、朝鮮引揚げ女性の為の堕胎病院が特別に設置され四、五百名の女性達が手術を受けている。わが国の女性達がロシアやシナ、朝鮮によって受けた惨劇は歴史の陰に隠され、慰安婦の補償のみが声高に叫ばれている。祖国に殉じて若き生命を断った女性達の事を決して忘れてはならない。

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