先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第三十回(『祖国と青年』23年10月号掲載)
三島由紀夫―現代に蘇る文武両道の思想1
文士三島から「サムラヒ」三島由紀夫へ
三島由紀夫、本名平岡公威は、大正十四年一月十四日に東京市四谷区(現新宿区)の平岡梓・倭文重夫妻の長男として誕生した。幼時は、祖母・夏子の溺愛を受けて育った。昭和六年に学習院初等科に入学、この頃より詩歌・俳句に興味を持ち始め、鈴木三重吉・小川未明などの童話を愛読した。だが、一年の内五十日程も休む程病弱な少年だった。
昭和十二年、学習院中等科に進学、文芸部に入部した。二年生の頃から十五・六歳にかけて盛んに詩作を試み、「万葉集」など日本の古典に親しんだ。十四歳の時、夏休みの宿題で「古事記」の倭建命の思国歌について書いた。教師の清水文男より古典の教えを受け、十六年九月より、清水の推薦で「花ざかりの森」を「文芸文化」に連載。
この時、三島から仰ぐ白雪を抱く富士の山にちなみ「三島由紀夫」と自らを称した。十七年、学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に進学。文芸部委員となり、日本浪漫派の間接的影響を受けた。
十九年九月学習院高等科を首席で卒業、天皇陛下より銀時計を拝受する。その感激は終生三島の天皇観の基礎となった。十月、東京帝国大学法学部入学。
十九年五月徴兵検査で第二乙種合格。二十年二月、遺書を記して入営に臨んだ。だが、入隊検査の際風邪で高熱の為、軍医が右肺浸潤と誤診し即日帰郷となった。
大東亜戦争後、川端康成に師事、川端の推薦で本格的に文壇に登場して行く。二十二年十一月、東大法学部を卒業し高等文官試験に合格、大蔵省銀行局に勤務した。
だが、翌年九月には、創作活動に専念するため、大蔵省を退職した。二十四年七月、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行し高い評価を得、作家としての地位を確立する。
二十六年から二十七年にかけて世界一周旅行に出る。これ迄文士として深夜に机に向かって執筆する生活を送って居た三島にとって、輝く「太陽」との出会いは新鮮なものであり、太平洋上、南米、ギリシャなどでその感激を記している。そして自らの自己改造を決意する。帰国後二十九年には『潮騒』で第一回新潮社文学賞を受賞する。
文士三島から「サムラヒ」三島へ
三十年九月、三島は、自己改造を志してボディビルを始めた。更に三十一年九月よりボクシングにも挑戦したが、三十三年十月にはやめた。それに代えて十二月から、その後終生続け五段まで段位を進めた剣道を開始した。明らかに、文弱の徒からの脱皮を開始したのである。
●書下ろし小説をやつてゐたあひだは、週に二回剣道を、三回ボディ・ビルをやつてゐたが、それが仕事のファイトをたえず燃え立たせるのにも役だつた。仕事の忙しいときは運動を控へるといふのはまちがつた考へで、そんなことをしてゐたら、ますます体が弱くなる。仕事が忙しいときは、それに比例して、もつと運動量をふやすべきなのだ。(「三島由紀夫の生活ダイジェスト」昭和34年12月)
●詩人の顔と闘牛士の体、これが理想だ。(「体育の日に考えよう」昭和41年10月)
肉体改造から武道の修錬へと進んだ文士三島は、日本の伝統である武士道を、自らに体現すべく「文武両道」を語り始める。作家として日本語の美を極める「文」の世界の構築と、自らの肉体を駆使した「武」の世界の修錬は、三島に充実の日々を齎すようになる。
三十一年には『金閣寺』を発表。三十三年には杉山瑤子と結婚、三四年には長編小説『鏡子の家』、三十六年には「憂国」、三十八年には「林房雄論」「剣」を発表。他にも次々と作品を発表し続け、更に舞台や映画迄三島の活動は広がって行く。
三島は自らの「文」と「武」について、独特の解釈を加えている。
●「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。(「太陽と鉄」昭和40年11月)
●私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。すべて日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。(「日本人の誇り」昭和41年1月)
戦後の生き方を導いた『葉隠』
三島由紀夫は、三十年に出した評論集『小説家の休暇』の中で「私は戦争中から読み出して、今も時おり『葉隠』を読む。犬儒的な逆説ではなく、行動の智恵と決意がおのずと逆説を生んでゆく、類のないふしぎな道徳書。いかにも精気にあふれ、いかにも明朗な、人間的な書物。」と初めて『葉隠』の事を紹介した。
そして遂に、四十二年に『葉隠入門』を発表する。その中で三島は、『小説家の休暇』の文章を引用し、
「これを書いたときに、はじめて『葉隠』がわたしの中ではっきり固まり、以後は『葉隠』を生き、『葉隠』を実践することに、情熱を注ぎだした」と述べている。更に「それと同時に、『葉隠』が罵っている「芸能」の道に生きているわたしは、自分の行動倫理と芸術との相克にしばしば悩まなければならなくなった。文学の中には、どうしても卑怯なものがひそんでいる、という、ずっと前から培われていた疑惑がおもてに出てきた。わたしが「文武両道」という考えを強く必要としはじめたのも、もとはといえば『葉隠』のおかげである。」と表白している。
三島は、昭和元禄とも言うべき戦後社会の中でこそ『葉隠』が光を放っていると、次の様に記している。
●ここにただ一つ残る本がある。それこそ山本常朝の「葉隠」である。戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新にした本といへば、おそらく「葉隠」一冊であらう。わけても「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のやうに強制されてゐた戦争時代が終はつたあとで、かへつてわたしの中で光を放ちだした。「葉隠」は本来そのやうな逆説的な本であるかもしれない。戦争中の「葉隠」はいはば光の中に置かれた発光体であつたが、それがほんたうに光を放つのは闇の中だつたのである。
『葉隠』は、佐賀藩士山本常朝の草庵を、若い藩士の田代陣基が訪れて七年間「聞書」し、享保元年(1716年)に完成した全十一巻一二九九項の書である。常朝五十八歳・陣基三十九歳の時に完成している。元和元年(1615年)の大阪夏の陣以来、天下泰平となった(元和偃武)江戸時代も百年が過ぎ、人々が元禄太平を謳歌している中で、常朝が武士としての矜持と心構えを説いたのがこの書である。
『葉隠』は「お家を一人で背負う覚悟」「武士道に於いて誰にも負けぬとの意思」「日々死を覚悟して落ち度無く生をまっとうする生き方」を説いている。特に、「治世に勇を顕はすは詞なり。」として、弱気の言葉や卑怯な言葉は「ざれにも、たはぶれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。」と厳しく戒めている。
三島は、『葉隠』には「行動哲学」「恋愛哲学」「生きた哲学」が書かれていると述べ、『葉隠』の中から四十八項を精髄として選び出している。それこそサムラヒ三島の実践哲学であった。
三島は自らの文学と『葉隠』との関係を次の様に記している。
●わたしは、『葉隠』に、生の哲学を夙に見いだしていたから、その美しく透明なさわやかな世界は、つねに文学の世界の泥沼を、おびやかし挑発するものと感じられた。その姿をはっきり呈示してくれることにおいて、『葉隠』はわたしにとって意味があるのであり、『葉隠』の影響が、芸術家としてのわたしの生き方を異常にむずかしくしてしまったのと同時に、『葉隠』こそは、わたしの文学の母胎であり、永遠の活力の供給源であるともいえるのである。すなわちその容赦ない鞭により、叱咤により、罵倒により、氷のような美しさによって。
「武士道」実践の自任
三島由紀夫は剣道を修錬し続け、四十一年八月には四段に進んだ、九月には船坂弘から船坂の著書に序文を寄せてくれたお礼にと、日本刀・関の孫六を贈られる。秋からは本格的に居合いを習い始めた。三島は自らを武士と自任して、それからの行動を定めていくようになる。
●武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考えられたからである。軍人に対する敬愛の念の底には、これがひそんでゐる。死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない。自衛隊に一ヵ月半お世話になった私の心底にはこの気持ちがあつた。万一の場合、自分をいさぎよくするには、武の道に学ぶほかはないと考へたからであつた。武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護することができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に身の安全は保証されよう。ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。(「美しい死」昭和42年8月)
●私は武士道と軍国主義といふものを、一緒に扱つたのがアメリカの占領政策の一番悪い処である。(略)私は、外人に極く概略的に説明しますことは、武士道と云ふものは、セルフ・リスペクト(自尊心)と、セルフ・サクリファイス(自己犠牲)ということが、そしてもう一つ、セルフ・リスポンシビリティー(自己責任)、この三つが結びついたものが武士道である。そして、この一つが欠けても、武士道ではないのだ。もしセルフ・リスペクトと、セルフ・リスポンシビリティーだけが結合すれば、下手をするとナチスに使はれたアウシュヴィッツの収容所長の様になるかもしれない。(略)日本の武士道の尊いところは、それにセルフ・サクリファイスといふものがつくところである。このセルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の非常な特長である。そしてこの三つが、相俟つた時に、武士道といふものが、成り立つのだ。といふことを外人に説明するんです。(「武士道と軍国主義」昭和45年8月)
昭和四十年代の危機と行動への飛翔
昭和四十年代に入ると、ベトナム戦争が激化して米軍による北爆が開始される。それ応じて米国ではベトナム反戦運動が起こって行く。又、中国大陸では、毛沢東による権力闘争が激化し、『毛語録』をかざした紅衛兵が出現、文化大革命による破壊が始まって行く。ベトナム反戦運動と文化大革命はわが国にも波及し、四十五年の安保再改定へ向けて共産主義勢力が伸長し、「七十年安保闘争」が激化、学園紛争や街頭デモが頻発する。
かかる時代の中で、三島由紀夫は自らの「戦い」を決意し、実行して行く。
四十年四月、三島は二・二六事件を背景とする自作自演の映画「憂国」を製作し、青年将校に扮し壮絶なる割腹シーンを演じた。九月には三島文学の集大成とも言うべき全四巻の長編『豊饒の海』の第一巻となる「春の雪」の連載が『新潮』誌上で始まった。十月には、三島はノーベル文学賞候補にも選ばれた(受賞には至らず)。
四十一年六月には『英霊の聲』作品集を刊行、三島の独特の天皇観が反響を呼ぶ。
八月には、大神神社・江田島・熊本の神風連ゆかりの土地等を訪問し、日本精神の深奥を実感して行く。
四十二年二月、川端康成らと共に中国文化大革命についての抗議アピールを発表。四月には、一人で自衛隊に体験入隊を行う。六月には空手の稽古を始めた。三島は、共産主義の反国家反天皇反自衛隊の時代風潮に対し、明確に対抗行動を開始したのである。
四十三年七月には「文化防衛論」を『中央公論』に発表し、自らの立場を内外に宣言した。
●私は考へやうによつては現在ただいまが危機だと信じてをり、国民が危機感を持つてゐないことに焦燥してゐる。(略)私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しいバランスを設定することなのである。そして、日本人であること、愛国心、国土防衛、自衛隊の必要性―この四者の関係はイモヅル式で一つ引つぱると全部出て来るものと考へる。(「青年と国防」昭和42年8月)
●守るとは何か?文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守ろうといふ企図は必ず失敗するか、単に目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに劒の原理である。(「文化防衛論」昭和43年7月)
●最近の衛藤瀋吉氏の或る論文で「間接侵略に真に対抗しうるものは武器ではない。国民個々の魂である」といふ趣旨があつて、私も全く同感だが、そこに停滞してゐては単なる精神主義に陥る惧れがあり、魂を振起するには行動しなければならない。動かない澱んだ魂は、実は魂ではない。この点で私の考へは陽明学の知行合一である。(「わが「自主防衛」」昭和43年8月)
三島由紀夫―現代に蘇る文武両道の思想1
文士三島から「サムラヒ」三島由紀夫へ
三島由紀夫、本名平岡公威は、大正十四年一月十四日に東京市四谷区(現新宿区)の平岡梓・倭文重夫妻の長男として誕生した。幼時は、祖母・夏子の溺愛を受けて育った。昭和六年に学習院初等科に入学、この頃より詩歌・俳句に興味を持ち始め、鈴木三重吉・小川未明などの童話を愛読した。だが、一年の内五十日程も休む程病弱な少年だった。
昭和十二年、学習院中等科に進学、文芸部に入部した。二年生の頃から十五・六歳にかけて盛んに詩作を試み、「万葉集」など日本の古典に親しんだ。十四歳の時、夏休みの宿題で「古事記」の倭建命の思国歌について書いた。教師の清水文男より古典の教えを受け、十六年九月より、清水の推薦で「花ざかりの森」を「文芸文化」に連載。
この時、三島から仰ぐ白雪を抱く富士の山にちなみ「三島由紀夫」と自らを称した。十七年、学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に進学。文芸部委員となり、日本浪漫派の間接的影響を受けた。
十九年九月学習院高等科を首席で卒業、天皇陛下より銀時計を拝受する。その感激は終生三島の天皇観の基礎となった。十月、東京帝国大学法学部入学。
十九年五月徴兵検査で第二乙種合格。二十年二月、遺書を記して入営に臨んだ。だが、入隊検査の際風邪で高熱の為、軍医が右肺浸潤と誤診し即日帰郷となった。
大東亜戦争後、川端康成に師事、川端の推薦で本格的に文壇に登場して行く。二十二年十一月、東大法学部を卒業し高等文官試験に合格、大蔵省銀行局に勤務した。
だが、翌年九月には、創作活動に専念するため、大蔵省を退職した。二十四年七月、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行し高い評価を得、作家としての地位を確立する。
二十六年から二十七年にかけて世界一周旅行に出る。これ迄文士として深夜に机に向かって執筆する生活を送って居た三島にとって、輝く「太陽」との出会いは新鮮なものであり、太平洋上、南米、ギリシャなどでその感激を記している。そして自らの自己改造を決意する。帰国後二十九年には『潮騒』で第一回新潮社文学賞を受賞する。
文士三島から「サムラヒ」三島へ
三十年九月、三島は、自己改造を志してボディビルを始めた。更に三十一年九月よりボクシングにも挑戦したが、三十三年十月にはやめた。それに代えて十二月から、その後終生続け五段まで段位を進めた剣道を開始した。明らかに、文弱の徒からの脱皮を開始したのである。
●書下ろし小説をやつてゐたあひだは、週に二回剣道を、三回ボディ・ビルをやつてゐたが、それが仕事のファイトをたえず燃え立たせるのにも役だつた。仕事の忙しいときは運動を控へるといふのはまちがつた考へで、そんなことをしてゐたら、ますます体が弱くなる。仕事が忙しいときは、それに比例して、もつと運動量をふやすべきなのだ。(「三島由紀夫の生活ダイジェスト」昭和34年12月)
●詩人の顔と闘牛士の体、これが理想だ。(「体育の日に考えよう」昭和41年10月)
肉体改造から武道の修錬へと進んだ文士三島は、日本の伝統である武士道を、自らに体現すべく「文武両道」を語り始める。作家として日本語の美を極める「文」の世界の構築と、自らの肉体を駆使した「武」の世界の修錬は、三島に充実の日々を齎すようになる。
三十一年には『金閣寺』を発表。三十三年には杉山瑤子と結婚、三四年には長編小説『鏡子の家』、三十六年には「憂国」、三十八年には「林房雄論」「剣」を発表。他にも次々と作品を発表し続け、更に舞台や映画迄三島の活動は広がって行く。
三島は自らの「文」と「武」について、独特の解釈を加えている。
●「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。(「太陽と鉄」昭和40年11月)
●私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。すべて日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。(「日本人の誇り」昭和41年1月)
戦後の生き方を導いた『葉隠』
三島由紀夫は、三十年に出した評論集『小説家の休暇』の中で「私は戦争中から読み出して、今も時おり『葉隠』を読む。犬儒的な逆説ではなく、行動の智恵と決意がおのずと逆説を生んでゆく、類のないふしぎな道徳書。いかにも精気にあふれ、いかにも明朗な、人間的な書物。」と初めて『葉隠』の事を紹介した。
そして遂に、四十二年に『葉隠入門』を発表する。その中で三島は、『小説家の休暇』の文章を引用し、
「これを書いたときに、はじめて『葉隠』がわたしの中ではっきり固まり、以後は『葉隠』を生き、『葉隠』を実践することに、情熱を注ぎだした」と述べている。更に「それと同時に、『葉隠』が罵っている「芸能」の道に生きているわたしは、自分の行動倫理と芸術との相克にしばしば悩まなければならなくなった。文学の中には、どうしても卑怯なものがひそんでいる、という、ずっと前から培われていた疑惑がおもてに出てきた。わたしが「文武両道」という考えを強く必要としはじめたのも、もとはといえば『葉隠』のおかげである。」と表白している。
三島は、昭和元禄とも言うべき戦後社会の中でこそ『葉隠』が光を放っていると、次の様に記している。
●ここにただ一つ残る本がある。それこそ山本常朝の「葉隠」である。戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新にした本といへば、おそらく「葉隠」一冊であらう。わけても「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のやうに強制されてゐた戦争時代が終はつたあとで、かへつてわたしの中で光を放ちだした。「葉隠」は本来そのやうな逆説的な本であるかもしれない。戦争中の「葉隠」はいはば光の中に置かれた発光体であつたが、それがほんたうに光を放つのは闇の中だつたのである。
『葉隠』は、佐賀藩士山本常朝の草庵を、若い藩士の田代陣基が訪れて七年間「聞書」し、享保元年(1716年)に完成した全十一巻一二九九項の書である。常朝五十八歳・陣基三十九歳の時に完成している。元和元年(1615年)の大阪夏の陣以来、天下泰平となった(元和偃武)江戸時代も百年が過ぎ、人々が元禄太平を謳歌している中で、常朝が武士としての矜持と心構えを説いたのがこの書である。
『葉隠』は「お家を一人で背負う覚悟」「武士道に於いて誰にも負けぬとの意思」「日々死を覚悟して落ち度無く生をまっとうする生き方」を説いている。特に、「治世に勇を顕はすは詞なり。」として、弱気の言葉や卑怯な言葉は「ざれにも、たはぶれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。」と厳しく戒めている。
三島は、『葉隠』には「行動哲学」「恋愛哲学」「生きた哲学」が書かれていると述べ、『葉隠』の中から四十八項を精髄として選び出している。それこそサムラヒ三島の実践哲学であった。
三島は自らの文学と『葉隠』との関係を次の様に記している。
●わたしは、『葉隠』に、生の哲学を夙に見いだしていたから、その美しく透明なさわやかな世界は、つねに文学の世界の泥沼を、おびやかし挑発するものと感じられた。その姿をはっきり呈示してくれることにおいて、『葉隠』はわたしにとって意味があるのであり、『葉隠』の影響が、芸術家としてのわたしの生き方を異常にむずかしくしてしまったのと同時に、『葉隠』こそは、わたしの文学の母胎であり、永遠の活力の供給源であるともいえるのである。すなわちその容赦ない鞭により、叱咤により、罵倒により、氷のような美しさによって。
「武士道」実践の自任
三島由紀夫は剣道を修錬し続け、四十一年八月には四段に進んだ、九月には船坂弘から船坂の著書に序文を寄せてくれたお礼にと、日本刀・関の孫六を贈られる。秋からは本格的に居合いを習い始めた。三島は自らを武士と自任して、それからの行動を定めていくようになる。
●武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考えられたからである。軍人に対する敬愛の念の底には、これがひそんでゐる。死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない。自衛隊に一ヵ月半お世話になった私の心底にはこの気持ちがあつた。万一の場合、自分をいさぎよくするには、武の道に学ぶほかはないと考へたからであつた。武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護することができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に身の安全は保証されよう。ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。(「美しい死」昭和42年8月)
●私は武士道と軍国主義といふものを、一緒に扱つたのがアメリカの占領政策の一番悪い処である。(略)私は、外人に極く概略的に説明しますことは、武士道と云ふものは、セルフ・リスペクト(自尊心)と、セルフ・サクリファイス(自己犠牲)ということが、そしてもう一つ、セルフ・リスポンシビリティー(自己責任)、この三つが結びついたものが武士道である。そして、この一つが欠けても、武士道ではないのだ。もしセルフ・リスペクトと、セルフ・リスポンシビリティーだけが結合すれば、下手をするとナチスに使はれたアウシュヴィッツの収容所長の様になるかもしれない。(略)日本の武士道の尊いところは、それにセルフ・サクリファイスといふものがつくところである。このセルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の非常な特長である。そしてこの三つが、相俟つた時に、武士道といふものが、成り立つのだ。といふことを外人に説明するんです。(「武士道と軍国主義」昭和45年8月)
昭和四十年代の危機と行動への飛翔
昭和四十年代に入ると、ベトナム戦争が激化して米軍による北爆が開始される。それ応じて米国ではベトナム反戦運動が起こって行く。又、中国大陸では、毛沢東による権力闘争が激化し、『毛語録』をかざした紅衛兵が出現、文化大革命による破壊が始まって行く。ベトナム反戦運動と文化大革命はわが国にも波及し、四十五年の安保再改定へ向けて共産主義勢力が伸長し、「七十年安保闘争」が激化、学園紛争や街頭デモが頻発する。
かかる時代の中で、三島由紀夫は自らの「戦い」を決意し、実行して行く。
四十年四月、三島は二・二六事件を背景とする自作自演の映画「憂国」を製作し、青年将校に扮し壮絶なる割腹シーンを演じた。九月には三島文学の集大成とも言うべき全四巻の長編『豊饒の海』の第一巻となる「春の雪」の連載が『新潮』誌上で始まった。十月には、三島はノーベル文学賞候補にも選ばれた(受賞には至らず)。
四十一年六月には『英霊の聲』作品集を刊行、三島の独特の天皇観が反響を呼ぶ。
八月には、大神神社・江田島・熊本の神風連ゆかりの土地等を訪問し、日本精神の深奥を実感して行く。
四十二年二月、川端康成らと共に中国文化大革命についての抗議アピールを発表。四月には、一人で自衛隊に体験入隊を行う。六月には空手の稽古を始めた。三島は、共産主義の反国家反天皇反自衛隊の時代風潮に対し、明確に対抗行動を開始したのである。
四十三年七月には「文化防衛論」を『中央公論』に発表し、自らの立場を内外に宣言した。
●私は考へやうによつては現在ただいまが危機だと信じてをり、国民が危機感を持つてゐないことに焦燥してゐる。(略)私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しいバランスを設定することなのである。そして、日本人であること、愛国心、国土防衛、自衛隊の必要性―この四者の関係はイモヅル式で一つ引つぱると全部出て来るものと考へる。(「青年と国防」昭和42年8月)
●守るとは何か?文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守ろうといふ企図は必ず失敗するか、単に目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに劒の原理である。(「文化防衛論」昭和43年7月)
●最近の衛藤瀋吉氏の或る論文で「間接侵略に真に対抗しうるものは武器ではない。国民個々の魂である」といふ趣旨があつて、私も全く同感だが、そこに停滞してゐては単なる精神主義に陥る惧れがあり、魂を振起するには行動しなければならない。動かない澱んだ魂は、実は魂ではない。この点で私の考へは陽明学の知行合一である。(「わが「自主防衛」」昭和43年8月)
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