NHK-BSプレミアムで放送されている名探偵ポアロ『ホロー荘の殺人』(サイモン・ラングトン監督 2004年)のラストシーンにおいて明らかにポアロは気が付きながら犯人のガーダ・クリストウが自殺することを止めなかったことに疑問を感じたので、原作を読んでみたらかなり改変していて納得がいった。彫刻家のヘンリエッタ・サヴァナクの作品に関して原作では「どうころんでも、芸術家の作品をぶちこわすなんて、刑事にできるわけがないでしょう?」(p.358)と書かれているのだが、テレビドラマのポアロが行方不明の拳銃を探すために容赦なくヘンリエッタの彫刻をぶち壊していたのには笑った(正確を期するならばポアロは探偵だからということなのか?)。
ところで『ホロー荘の殺人』はミステリー以外の要素があるように思う。ヘンリエッタ・サヴァナクは自身の作品にかなりこだわる人で、「ノーシケイア(Nausicaa)」(日本ではナウシカという名前で有名)を粘土で彫像するためにたまたまバスで見かけたドリス・サンダースに声をかけてモデルになってもらうほどだったのだが、彫像はあくまでも「ノーシケイア」で、ヘンリエッタはペール・ギュントの「完全な人間、真実の人間なる私自身はどこにいるのだ! 額に神の印をおされた私はどこにいるのだろう?」(p.31)という言葉を胸に抱いて制作している。
医師のジョン・クリストウも理想に生きた人で、勤務先の聖クリストファー病院で難病のリッジウェイ病を患っているクラブトリーを治すために特効薬の開発に勤しんでおり、既婚者でありながら同じように理想に生きるヘンリエッタと関係を持ってしまうのは仕方がないことなのか。
ジョンが15年前に映画女優のヴェロニカ・クレイと交際していた理由もジョンの理想を追い求める気質によるものであろうが、ヴェロニカの強引な束縛により自分の理想を追い求められないことに嫌気がさしたジョンはヴェロニカと別れ、ガーダと結婚したのである。ガータの自己評価の低さが悲劇を生み出したのだが、結婚するくらいなのだからジョンはガータを心底愛していたのではないだろうか?
エドワード・アンカテルはエンズウィックの相続人で(たぶん)売れてない作家なのだが、ヘンリエッタに夢中なのは、もはや家系のなさる業で、弟のデイヴィッドは大学を卒業後も家に籠って「プラトン学派の過去を考察したり、左翼の将来を真剣に討論することを好む」(p.184)青年である。
そんな家族の殺人現場を目撃したポアロの感想は「彼の眼前にあるのは、きわめてわざとらしい殺人場面だったからである。プールのそばに死体があって、腕は投げだされ、赤いペンキまでがコンクリートの縁からプールへ静かに滴り落ちていようという、まったく芸術的な凝り方」で「この〈犯罪〉を本物だと思ったふりをすればいいのだろうか?」と憤慨している(p.131)。
理想を求めすぎて「作り物」と化しているアンカテル家に転機が訪れるのはガス・オーブンで自殺を試みたエドワードを助けたブティックの売り子のミッジ・ハードカースルが抱いた思いである。「そうだ、絶望とはそういうものなのだ、と彼女は考えた。冷たいもの ー 限りなく冷たく孤独なものなのだ。絶望が冷たいものだとは、いままで彼女は知らなかった。それは熱くて情熱的なもの、荒々しくて激しいものだと思っていた。しかし、そうではなかった。これが絶望なのだ ー 冷たさや孤独を含んでいる、この外面の暗黒が絶望なのだ。そして、牧師が説くところの絶望の罪とは、暖かく生きている人とのあらゆるつながりから、自らを引きはなす冷たい罪なのだ。」(p.342)
ミッジに助けられたエドワードは「ミッジこそ現実なのだ」と考える。
「ぼくが知っている唯ひとりの現実の女なのだ……」彼は彼女の暖かみを、力強さを ー ブルネットで、積極的で、生き生きしている現実の女を感じた。「ミッジはその上にぼくの人生を築くことのできる岩なのだ」「ミッジ、とても愛しているよ、もう二度とぼくから離れないでくれ」と彼は言った。(p.343)
エドワードとミッジの結婚が暗示されることでヘンリーとルーシーのアンカテル夫妻の本来の目的は達したのである。
「いまや《ニューズ・オブ・ザ・ワールド》がこのホロー荘にも侵入してきたらしかった。」(p.184)と「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」に例えられる俗情が「理想郷」だったホロー荘に「人間味」を与えたのであるが、芸術家気質が抜けないヘンリエッタはジョンを弔うために《嘆き》という石膏像を制作するのである。