多摩爺の「時のつれづれ(皐月の24)」
胸騒ぎの風が吹いている。(憲法記念日)
今日は憲法記念日なので、憲法について、知りうるレベルの範囲で綴ってみようと思うが、
まずその前に、いつも読ませていただいているブログのなかに、
重度の障がいをもったお子さんを育てながら、
頑張って公的な資格にチャレンジして、見事に合格された、関西のお母さんがいらっしゃるが、
その頑張り屋さんが、最近とっても辛いストレスを抱えてしまったようだ。
私にはどうすることもできないし、適切なアドバイスも思いつかないが、
若い頃に学んだことがある「一番苦労した人が、一番幸せになる。」との言葉が、
幾星霜の時を超えなお、ズシンと胸に刺さっており、
元気がなくなりかけた自分に、そう言い聞かせながら・・・ 前を向くように心がけている。
「おまえに、いったいなにが分るんだ?」と、お叱りを受けるかもしれないが、
それでも「負けないでガンバレ!」と、エールを送らずにいられない。
迷惑で要らぬ世話かもしれないが・・・ お節介をご容赦いただけるとありがたい。
閑話休題
ここからが、今日の本題であって、ちょっと小難しいことを綴ったので、
退屈でなければ・・・ 付き合ってほしい。
毎年「憲法記念日」がくると、さまざまなブロガーさんが持論を展開されており、
いろんな角度から捉えた視点を読ませていただき・・・ 学ぶことを楽しみにしていたが、
ロシアのウクライナ侵略によって、国防への議論が急速に高まってきており、
憲法に関して、いままでのように無関心では済まなくなってきている。
国防と言えば・・・ 直ぐに思い浮かべるのは、自衛隊や日米安保だが、
そこには、日本国憲法9条「戦争放棄」が密接に関わっていて、
いまさらだが・・・ その解釈については、実態と噛み合ってないところがあって、
実態に即した憲法に改正するのか、それとも、憲法に実態を合わせるのか、
本来なら早急に調整しなければならないのに、随分長い間ほったらかしにされている。
問題になっている・・・ 日本国憲法9条「戦争放棄」は、
「戦争の放棄」と「戦力の不保持と交戦権の否認」の二項で構成され、次のように記されている。
第一項 戦争の放棄
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 戦力の不保持と交戦権の否認
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
現実に自衛隊があるということを踏まえて・・・ 原文をそのまま読むと、
第一項では、自衛の範疇であれば、自衛隊の存在は認められると思うが、
第二項では、戦力を保持しないとあり、自衛のためとはいえ戦力を保持しており、
第一項と第二項を合わせて読むと・・・ やっぱり、矛盾が生じており、
左派系の野党や学者、さらにはコメンテーターが指摘する「自衛隊は違憲」は概ね理解できる。
だから・・・ 議論しようというのだが、
左派系の野党は、ロシアのウクライナ侵略に乗じて議論を進めるのは、悪乗りだとして、
頭が冷静な時にやらなければ意味がないと、議論そのものに後ろ向きになっている。
頭が冷静なときという耳障りの良い言葉は・・・ いかにも尤もだと思いもするが、
安保理の常任理事国が、核兵器をチラつかせて他国を侵略する時代であり、
平時だろうと、戦時だろうと、どのような時期であろうと、
なにかしらの問題は・・・ 常にあると言っても過言ではない。
では、いったいなにをもって、頭が冷静なときとするのか?
ウクライナ問題が片づき、尖閣や台湾問題も落ち着くまでとでも言うのだろうか?
仮に近い将来、そういった状況になったとしたら、
そのとき彼らはきっと、現実問題として危機がないのに、
なぜいま、そういった議論しようとするのか・・・ と言い出すのは目に見えており、
早い話、どちらに転んでも議論したくないのである。
そんなこんなで、議論の入り口に達するまでに、ずいぶんと時間がかかってしまっているが、
大事なことは・・・ 危機について議論することは、過剰反応か否かという視点と、
その危機について、なにをもって危機とするのかという視点と、
そのなにをもっての「なに」が、妄想であるか否かという視点に、思想を背景にした隔たりがあり、
入り口に入る前から、視点が噛み合ってないのだ。
さまざまなブロガーさんが綴る論点も、そこんところに集中しており、
そこが解決できないまま、席に着くまでに無駄な時間ばかりを費やしているんだから、
もはや、完全に平和ボケであって・・・ 腹立たしくもある。
過剰反応だろうが、妄想だろうが、そういったことを想定して、対応策を練っておかないと、
いざというときに手遅れになるのは必至で、国民の命と生活を守ることはできない。
疑義が生じているのに、それを解明し、どうすべきか、その議論を避け続けていては、
日々凄い勢いで進化している時代の流れに、
この国だけが乗り遅れてしまうと思うが・・・ 如何なものだろうか?
もちろん、議論を尽くした先の結論として、
変えなきゃ行けないこともあれば、変えてはならないものもある。
いったい、いつまでこの問題をほったらかしにすれば良いのだろうか?
どういう方向を国民は選択するのか、そろそろ意志を確認しておくべきだと思う。
そして・・・ 決まったことは遵守する。
こういった手順を踏むことを、いつまでも躊躇していては、法治国家としての体をなさない。
私は既にリタイアした年金生活者であって、
1票を投じることしか役に立たない、そこら辺りに住む爺さんだが、
憲法記念日にあたって・・・ 今年はなぜか、この国に蔓延する平和ボケが気になっている。
自然災害も含めて、有事は予告なしに突然やってくる。
世界の近代史に学べば、自然災害を除いた有事のほとんどは、
民主的な考えが通用しない、暴君まがいの為政者による、外交努力を無視した暴発であり、
この国の周辺にも、核兵器を持った為政者がいて、こちらをしらっと見ている。
発言も、行動も、大概のことが自由なこの国には、さまざまな意見があり、
それを否定するものではないが、
本来議論すべき論点は、憲法9条を守り、変えないことではなく、
国民の命と財産をどうやって守るのかであって、
命よりも憲法を優先してしまったら・・・ それこそ本末転倒ではなかろうか?
そちらの方向を向いて、お花畑論(理想論)じゃなく、現実論で議論しないと、
すっかり平和ボケにならされてしまった、国民の心には刺さらないだろう。
左派系の政党ならびに、学者やコメンテーターは、
この期に及んでなお、国防力(軍事力)より外交力だと自信満々に自説を述べるが、
国防力の裏付けがあるから、外交力が効くのであって、
話せば分る奴らじゃないのに、それを理解してないのだから、おめでたいにも程がある。
ウクライナを侵略したロシアに着目すれば、彼らは資源をもっているが、
石油や天然ガスなどの、資源がないこの国では、
相手を干上がらせ、震え上がらせるような殺し文句を、外交の場で持ち合わせておらず、
お金をだすことで、いつもその場を凌いできた。
それもまた、視点を変えれば、賢い選択なのかもしれないが、
そろそろ「金持ち喧嘩せず。」的な、蚊帳の外からの中途半端な外交から脱却し、
ハッキリと、もの申す外交を繰り広げてほしいと願っている。
ゴールデンウィークも半ばにさしかかった、憲法記念日の朝、
いつもより早く目覚め、ダラダラと思いの丈を綴ってしまったが、
その後、リビングの戸を開けて、早朝の新鮮な空気を肺に取り込みながら、心を癒やしていると、
どこからともなく吹いてきたのは・・・ 胸騒ぎの風だった。
やっぱり・・・ なにかに引っかかり、なにかが気になっている。
きっと心のどこかで、このことについてのストレスを抱えているのだろう。
そんな思いもあったので、3時過ぎに目覚めて、2時間弱かけて綴ったブログのタイトルを、
「自衛隊の違憲論争」から「胸騒ぎの風が吹いている。」に変えることにし、
20分ぐらいかけて、以下の文を追加で綴った。
被爆した弱みにつけ込んで平和条約(不可侵条約)を一方的に破棄し、
北方領土に奇襲攻撃を行って略奪を繰り返し、捕虜を厳寒のシベリアに抑留させたのみならず、
返還を求めて下手(したで)に出れば、直ぐにつけあがる「ならず者」が海を超えた隣にいる。
先の大戦に乗じて内戦を仕掛け、弱った政権を追い出した数年後、国際社会にしゃしゃり出ると、
国連の安全保障理事国(常任理事国)を、ちゃっかりせしめたのみならず、
世界中にウイルスをまき散らし、発生源とみられる場所の調査を拒む「悪党」が海を超えた隣にいる。
姑息にも我が国の若者を拉致誘拐して、スパイ活動の教育係としたのみならず、
民が飢えて苦しむなか、核兵器の開発に傾注し、
瀬戸際から威嚇を繰り返す「チンピラ」が海を超えた隣にいる。
小心者の私は、本音では他国のことを悪く言うのは好まないし、
ひとり一人にフォーカスすれば、
案外悪い人たちは、見当たらないのかもしれないとさえ思っている。
文化やスポーツの交流まで拒むのは・・・ 本意ではないものの、
外交という民主的な国際社会の常識が、全く通用しない考えの持ち主がいるのも事実であって、
いまこの時も、この国の直ぐ近くで爪を研ぎながら、
虎視眈々と隙を狙っていることを、見逃すことがあってはならない。
胸騒ぎの風が・・・ 取り越し苦労で終わることを、望んでやまない。
それにつけても、この国に蔓延する平和ボケだけは、
憲法記念日という、一つのタイミングをトリガーにして、
なんとかせねばならないと思っているが・・・ 如何なものだろうか?
取り留めのない文をダラダラと綴ってしまったが、
言いたいことは一つだけ・・・ 改憲するにしろ、護憲で良しとするにしろ、
国民投票で信を問うことを恐れて、議論から逃げたり、避けたりしてはならないということである。
もちろん・・・ どんなことがあっても戦争は絶対悪であり、やってはならない。
ところが・・・ ロシアを含む一部の国々では、そうではないらしい。
そういう現実があることを、忘れないためにも、
憲法記念日にあたって、この国はいったいどこに向かおうとしているのか?
その議論から逃げてはならないことを・・・ 記しておきたかった。
異議なしです。攻撃できる武器がないと
敵は相手にもしてくれない。
特に今年は危ない気がします。年末までもつか?
こんな妄想で心苦しいです。過激ですみません。
平和ボケしている時期じゃないと思います。
私は護憲という選択肢を求める人々が居ても良いんだと思っています。
それが自由であって、ロシアや中国、北朝鮮のように言論の自由が封じられることの方が怖いと思っています。
論点を明確にして、まず議員さんたちが議論し、国民に信を問えば良いだけのことで、
議論を拒むことは、言ってること(言論の自由)と、やってること(行動の自由)に整合性がとれません。
75年を向かえた憲法が、今の時代にあっているかどうなのか、徹して見える化し、議論してほしいと願っています。
また、仰ってるとおり、今年か近い将来かわかりませんが、
中国が暴発するとロシアと北朝鮮が追随する可能性はゼロでは亡いと思っています。
ホントにどうなるのでしょうか・・・ 困ったものです。
うちの女房も「いざとなったらアメリカは守ってくれないよ。」と同じことを言ってました。
さすがにそれはないと思いますが、いまのままの武器と兵力で足りるかどうかには疑問があります。
ホントに平和ボケしてる余裕などないはずです。